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世界一への道 伊藤繁雄 
球史を革新したドライブ強打王 5

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
 1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=小谷早知 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年8月号を再編したものです


無名選手

 伊藤は東京選手権大会に出場するため、3月上旬に上京した。広島の大竹高校を卒業したばかりの広田佐枝子も一緒だった。東京駅には専修大学からの迎えが来ているはずだった。二人はホームの雑踏の中で辺りをきょろきょろ見回していたが、専大のマネージャーはすぐにセーラー服姿の広田に気づいたらしい。
「おお、よく来たな。待ってたぞ」と、片手を挙げて近づいてきた。
「広田、長旅で疲れただろう。ご苦労さま。合宿所に着いたらまずはゆっくり休めよ」
 マネージャーは、インターハイ準優勝の広田をしきりに気遣った。
「荷物、重いだろ。俺が持ってやるよ。いいから、いいから、遠慮するな」
 彼は、歩き出す段になってようやく、所在なさげに傍らに突っ立っている伊藤に目を留めた。そして「あれっ」といような怪訝(けげん)な顔で言った。
「ん、おまえは何だ?」
「三菱レイヨンから来た伊藤です。お世話になります」
「ああ、お前が伊藤か。まあ、ついて来い」
 伊藤は重いかばんをひきずりながら、すたすたと前を行くマネージャーと広田の背中をにらみつけた。
「くそ。ばかにするのもいいけげんにしろよ。俺は西日本選手権チャンピオンなんだぞ。今にすごい成績を挙げて、こっちに注目させてやるからな」
 伊藤はこのとき、人の波を押し分けながら、上京前からの決意を新たにした。

河野満

 伊藤と同期で専大に入学した選手の中に、後に世界チャンピオンとなる河野満がいた。河野が青森商業高校時代にインターハイや全日本ジュニアで活躍していたことは知っていたから、伊藤は「一体どんなやつだろう」と彼に会うのを楽しみにしていた。
「河野です。よろしくお願いします」
 そう名乗ったのは、色の白い、東北なまりの青年である。どちらかといえば動作がのんびりしていて、大股(おおまた)でずんずん歩く伊藤とは対照的だった。いかにもとっつきにくい、というのが最初の印象だった。
 しかし、伊藤は河野と球を打ち合ってみて「こいつは天才だな」と直感した。表ソフト速攻型で、ボールへの感覚の鋭さが抜群に優れていた。
 口数が少なく自分から声をかけてくることはあまりないが、話してみると、卓球への熱意が人一倍高く、自分のプレーについてしっかり考えていることもわかった。
 伊藤は、河野に追いつき、そして追い越すことを目標に決めた。

東京選手権大会

 伊藤は1カ月前に西日本選手権大会で優勝していた自信から、東京選手権大会にはベスト8入りを狙って臨んだ。シードされての初戦で慶応大学の左ペンホルダー攻撃型、本美選手と当たった。
 ところが、である。相手のサービスのタイミングに動きを合わせられず、レシーブにてこずり、あれよあれよという間に失点を重ねてしまったのである。
 思いもよらない敗退だった。西日本で名を馳(は)せた自分の方が格上のはずだというプライドが邪魔して、集中力を欠いた結果だった。
 伊藤はラケットを引っつかんでベンチに戻りながら、憤懣(ふんまん)やる方ない思いを両腕に込めた。ラケットは「バキッ」という音を立て真っ二つになった。
「誰に対してもベストを尽くす、それが俺のモットーではなかったのか。西日本選手権大会での優勝を鼻にかけて相手をなめるなんて、最低だ。こんなふまじめな試合は二度としまい」
 これが、試合で負けた腹いせだとしたら、おおよそ褒められたことではない。用具を大切に扱うことは、卓球選手として当然のマナーである。ましてやラケットを割るなど論外だ。
 しかしこのときの伊藤のそれは、まったく異なる意味を持っていた。単に悔し紛れのものではなく、知らず知らずのうちにごう慢になっていた醜い自分と、静かに決別するための行為だったのである。

1日の生活

 専大に入学すると、想像以上に厳しい寮生活が待ち受けていた。
 1年生は毎朝6時に起床する。それも目覚まし時計を使うなどもってのほかである。同じ部屋で寝ている先輩を起こしてしまうからだ。代わりに毎晩「明日は6時に起きる、絶対6時に起きる」と何回も唱え、自己暗示をかけて寝た。
 寝床を片付けて、部屋とトイレを掃除し、先輩のユニホームがそろっているかを確認する。それが終わると道場に駆け上がって床の雑巾がけをし、7時までには台をピシッとそろえて並べておかなければならない。
 7時からは準備体操とトレーニングが始まる。まずランニングである。5~10キロくらいを走るのが常だった。専大の周りは丘陵地帯になっており、クロスカントリーには最適だった。
 途中までは全員でペースを合わせて走る。
「ファイト、はぁはぁ、ファイト、はぁはぁ」
「ファイト、ひぃひぃ、がんばれ、ひぃひぃ」
「1年生、声が小さい。もっと気合を入れろ」
 1、2年生の掛け声に混じって、上級生の怒号が飛ぶ。
 折り返し地点まで来るとフリーになる。先輩よりゴールが遅ければうさぎ跳びをさせられるとあって、みんな必死である。
「ああ河野、俺はもう倒れるかもしれない」
「伊藤、俺もだ。はぁはぁ」
 後の世界チャンピオンとて、最初から体力的に優れていたわけではない。伊藤も河野も、むしろ持久力不足に悩まされていたくらいだった。しかし、甘えて立ち止まることは許されない。励まし合って走り切るのみである。
 余裕のある野平主将などは、後ろ向きで走って、からかい半分に伊藤に声をかける。
「伊藤、どうした。ちっとも進んでないぞ。根性を入れて、もっと足を動かせ」
「はぁはぁ、がんばります」
 足はふらつき、コースまでゆがんで見え、よたよたしているように思えた。
 その後は道場に帰って来て腹筋運動、背筋運動、腕立て伏せをかなりの回数やらされた。朝のトレーニングだけでへとへとになってしまう。
 しかし、本格的な練習はそれからである。
 午前中はフットワークなどの基本練習、午後と夜は課題練習と試合が中心だった。
 伊藤は大学に入るまで1日に5分程度しかフットワーク練習をしたことがなく、いきなり30分のノルマを課せられて参った。ノーミスで左右に厳しく回されるボールを、すべてフォアハンドで打ち返す。ノータッチで抜かれようものなら、すかさず先輩にほうきでおしりをぶたれる。
 苦しくてたまらず、「早く時間が過ぎてほしい」とそればかり考えていた。ボールを拾いに行くのにもわざと息を弾ませて時間を稼ぎ、汗もゆっくりとぬぐった。
 ようやく相手を動かす側に回っても気は抜けない。少しでも横着すると、「微調整をしろ」と怒鳴られる。このときも下手に返すと後ろからぶたれるのは同じである。
「ファイト、ファイト。元気を出していきます」
 専大では、練習中の声出しが特に重視されていた。
 声を出すと、集中力を上げたり気持ちを積極的にしたりできるだけではない。ボールを打つ瞬間に発声して腹筋に力を入れることで、打球点が安定し、正しいラケットワークができるようになる。また、体全体のリズムをつくる意味もあった。
 それも、ただ胴間声(どうまごえ)を張り上げればよい、というのではない。他人を寄せ付けないような気迫に満ちた掛け声が求められていたのである。
 専大の道場は決して新しくはなく、カーテンがところどころ破れ、台も旧式のものだったが、床はいつも黒光りしていた。選手たちが毎日磨き上げていたからである。道場内の雰囲気は常に高く保たれ、不用意に音を立てようものなら、ほおが空気にピリッと切られそうなほどだった。
 世界のトップ選手を何人も生んだ専大は、このような大学だったのだ。

卓球日誌

 伊藤はこのような生活の様子を、事細かに日誌に記していた。その日誌は今でも大切にとってある。うぐいす色のどっしりとした日記帳である。現役時代を通して書き続けたため数冊に及ぶ貴重な記録となっており、その中の1冊の冒頭には、
「一度しかない人生を
一度しかない自分を
本当に生かさなかったら
人間生まれてきた
かいがないじゃないか」
という、山本有三『路傍の石』の中の一節が引かれている。勢いのある、力強い筆致である。
 毎日欠かさず付けていたわけではないが、たいていは1日に1ページ、多いときには数ページにわたってぎっしりと書いた。対外試合や部内試合の成績と敗因分析、詳しい図のついた練習計画、そして最後には自分を鼓舞する文句を書き連ねた。
「シゲオ、まだまだ貪欲(どんよく)になってないぞ」
「一日一日、くいを残さぬよう、必死でやるぞ」
「目指すは世界、そのためには練習で泣け」
「さあ、明日もがんばろう。母さん、見守ってください」
 日々の出来事を淡々と記すというより、言葉を自分の心に深く刻みつけようとしていたかのようである。
 伊藤は、練習に明け暮れる生活の中でも、このように自らを振り返る姿勢を大切にしながら、前へ前へと進んで行ったのだ。次回へ続く

伊藤が当時の心境や練習内容を克明に書き刻んだ日誌



Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。

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