「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年8月号を再編したものです
専大卓球部訓
専大卓球部には、「矛盾を矛盾と思うな」という部訓があった。伊藤は最初、この意味を理解できなかったが、専大の生活に慣れていくにしたがって、少しずつ納得できるようになった。
例えばトレーニングで腕立て伏せ300回を命じられるとする。22~23回が自分の限度だと思っていた伊藤には、当然こなすことができない。
しかし「先輩、300回は無理です」などと言おうものなら、すかさず「伊藤は気持ちがたるんでいる。連帯責任として全員に50回追加する」と切り返される。いくらつらくても、やらなくてはならない状況に追い込まれるのだ。
やっとのことで20回までやると、腕が硬直してしまい、もうだめだと考えてしまう。周りを見ると、大声を出して必死でやっている仲間たちも同じで、頭を上下に動かすことしかできなくなっている。
それでも顔を真っ赤にして何とか力を振り絞り、腕をがくがくさせながら、なんとか「......298、299、......ええい、......300」と数え終える。
これを繰り返すうち、伊藤はあることに気づいた。
それまで自分は22~23回が限界だと思っていた。300回などあまりに非常識な数字で、いくら腕力のある人でも不可能だと考えていた。しかし、実際に深く腕を曲げられたのは数十回にすぎなかったにしても、気持ちの上では300回にも耐えられた。自分で限界をつくってしまうとそれを超えることはできないが、無限に向かって必死になればなんとかなる、それが「矛盾を矛盾と思うな」という部訓のいわんとするところではないかと考えたのである。
とにかく専大の取り組み方は普通とは違った。非常識が常識になっているのが専大だったのだ。
ひざを壊すのではないか、肩を痛めるのではないか、筋肉が引き攣(つ)るのではないか。普通の人ならこう考えるところだが、専大の選手は違った。それで故障するくらいなら、自分はそれだけの力しかない、専大で卓球をすることはできないと思うのだ。ましてや、本当に故障したら「喜べ、一流に近づいた証拠だ」とまで言われた。
いくら練習がつらくても、名を挙げるまで故郷には帰らないという決心を胸に上京した伊藤には逃げるところがなかった。耐えて先輩たちに食らいついていくしかなかった。
入学前は卓球の苦しさなど知らなかった。好きさ加減は10なのに、5しかできないことの方が多かったからである。しかし、大学では15以上やらされる。毎日が限界への挑戦で、合宿生活に慣れること、練習についていくことで精いっぱいだった。他のことをやる余裕はなかった。
最初の半年
実業団から大学に入った伊藤のような選手には、初めの半年は対外試合に参加できないという研修期間規定があった。せっかく練習に励んでも、試合で結果を出す機会を与えられないのは悔しいものである。専大にも、いったん社会に出てから入学した先輩が何人かいたが、半年の間には、我慢しきれず努力を怠る例があった。
一方、試合で自信をつけた選手は大きく成長する。伊藤は、河野には4対6くらいの割合で勝ったり負けたりしていたが、新人戦で優勝したあくる日の彼には太刀打ちできず、たった1日で一皮むけたなと驚いたことがあった。
しかし、伊藤はこの半年をマイナスだと考えて気を腐らせたりはしなかった。基本を身につけ今後どういう卓球を目指すのかを見つめる、自分だけに与えられたチャンスだと思い直したのである。
周りで練習しているのは、学生大会ではもちろん、全日本レベルで活躍している選手たちである。一緒に練習したり試合を見たりするだけで、勉強になった。ときには元世界チャンピオンのOBやOGのアドバイスを受けられることもある。
専大の部訓には、「専修を制する者は関東を制す。関東を制する者は日本を制す。日本を制する者は世界を制す」というのもあった。専大はそれまでに川井、富田、野平(明雄)、星野、渡辺、松崎ら世界選手権メダリストを輩出していた。「専修を制する者が世界を制する」と言っても、ただの誇張ではなかった。
それまで専門の指導を受けたことのなかった伊藤である。卓球に関する知識がまだ不十分で、プレーの組み立ても自己流の域を出ていなかった。フォアハンドで払いたいから払う。ドライブを使いたいから無理にでも仕かけるというような自分本意のプレーを押し通そうとして失敗することが多かった。試合の流れの中で相手の嫌がる戦術をどう編み出すか、それを実行に移すための技術をどう実につけるか。考えることはいくらでもあった。
サービスはどの位置からどう出すか、レシーブはどこで構えるのがいいのか、ラケットの振りは十分に速いかどうか、自分の動きをボールにどう合わせるのか、一つひとつチェックしながら理想の型に近づけた。
一生懸命やっているとスランプに陥ることがある。フォアハンドの振り方や足の動かし方、そんな基本的なことがわからなくなるのである。
こういうとき伊藤は、
「伸びない選手にはスランプもない。本気でやった証しがスランプなんだ。これは喜んでいいことなんだ」と自分に言い聞かせた。
うまくいかないのには必ず理由があるはずである。基本姿勢はいいか、ストライクの位置で打っているか、戻りは素早くしているか。自分の動きの狙いを、焦らず丁寧に確認していった。
研修期間を終えた伊藤が東京選手権大会以来初めて出場できたのは、東日本学生選手権大会の予選だった。
この直前の合宿で、伊藤は奇跡を起こした。1年生ながら部内リーグ戦で1位になったのだ。学生から唯一の世界選手権大会代表となった野平、全日本のダブルスで優勝した有本、全日本学生のダブルスで2回優勝した大野、そのパートナーでこの年に隻腕で全日本学生チャンピオンになる北村、売り出し中の宮之原、そして新人戦で優勝した河野らをすべて破って14戦全勝である。
この1週間の合宿では、のどが3回もつぶれた。それほど気合が入っていたのである。半年間の練習の成果を、ここで存分に発揮したといえるだろう。
入学した時点の伊藤は、技術面でも体力面でも専大で求められるレベルには遠く及ばなかった。そんな中でがむしゃらに努力することで確実に実力をつけ、いつの間にかそのレベル以上のものまで狙えるようになったのである。
東日本学生選手権大会予選の決定戦で対戦したのは、高校時代に国体で負けた梨本(中央大)だった。1ゲーム目はあっさりと敗れたが、2ゲーム目を8-12から逆転勝ちして部内リーグ1位の自信を取り戻した(注:当時は1ゲーム21ポイント制)。そして3ゲーム目は圧勝し、本戦出場を決めた。その後の本戦ではランキング決定戦まで進み、鍵本(早稲田大)にゲームオールで敗れた。
全日本学生選手権大会ではランキング決定戦で初顔合わせの長谷川(愛知工業大)にゲームオールで負けた。全日本選手権大会はシングルスとダブルスでは予選落ちしたが、広田と組んだ混合ダブルスで、前年優勝の三木・関組を破って3位になった。しかし、東京選手権大会ではランキング決定戦で敗れた。
人の4年を2年で
2年に進学してすぐの関東学生選手権大会ではダブルスで優勝、春の関東学生リーグ戦でもポイントゲッターの一人として活躍し、全勝した。
しかし、関東学生選手権大会や東日本学生選手権大会のシングルスで思うように成績を残せていないのが、痛いところだった。世界を視野に入れるとなると、シングルスで好成績を挙げることは必須条件である。
伊藤は入学する前に、
「2年遅れて入学した俺は、他の人が4年かかって挙げる成果を、2年で挙げる覚悟で練習しよう」と心に決めていた。その伊藤にとって、2年時の東日本学生選手権大会は一つの節目としての意味を持っていた。
「もしランキングに入れなかったら選手としてこれから大きく伸びる可能性は少ない。選手を辞めてマネージャーになろう」とまで、自分を追い込んでいた。
苦しい家計をやり繰りして自分を東京に送り出してくれた家族に報いるためにも、なんとかして結果を出したかった。
そのためには試合前の暑い夏休みをうまく使って、効果的な練習をしなければならない。どうすればランキングに入れるか。伊藤は練習方法を必死で考えた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。