「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年10月号を再編したものです
転機の1点
伊藤は、ベンチコーチをOBの野平さんにお願いしていた。野平さんの試合前のアドバイスはこうだった。
「台から離れるなよ。ドライブの引き合いになると、お前の方が不利になるからな。あまり回り込まずに、バックに来るボールはショートでうまくつなげ。フォア側のボールを狙うようにするんだ。そうすれば、お前にチャンスがある」
伊藤の卓球の持ち味は、強靭(きょうじん)な足腰を生かして回り込み、積極的にフォアハンド攻撃を仕掛けるというものである。しかし、木村興治のドライブの破壊力には、前々から定評があった。野平コーチはそれを恐れ、伊藤に、なるべく木村のドライブを封じるような戦術を取らせようとしたのだ。
ところが驚いたことに、当の木村も、同じような作戦を立てていたという。後で分かったことだが、伊藤が上り調子なのを知っていた木村もまた、伊藤のフォアハンドドライブを警戒し、ショートを増やそうと考えていた。台から離れての打ち合いを避けたかったのである。
双方が同じような作戦を立てて戦ったためだろうか、試合は一進一退の展開になった。伊藤は、第1ゲームと第3ゲームを取った。
仮にも全日本選手権大会の決勝である。しかも相手は以前から世界選手権大会で活躍している、経験の豊富な選手だ。めきめきと実力をつけてきた伊藤とはいえ、簡単に勝負をつけられるとは思っていなかった。
むしろ、第1ゲームを取って少し緊張を緩め、第2ゲームでリラックスした試合をし、第3、第4ゲームでもそれを繰り返す、というようなリズムを感じながら自分の気持ちを盛り立てていた。
「第3ゲームを取ったのだから、第5ゲームは俺のものだ」
最終ゲームにはそう考えて臨んだ。しかし、このゲームは出足からうまくいかなかった。
序盤からリードされて11-14になったとき(編集部注:当時は1ゲーム21ポイント制)、伊藤は考えた。
「このまま同じ作戦を取り続けていたら、負けるだろう。だが、俺の本当の目標は、この全日本をステップにして、もっと実力をアップさせることだ。どうせ負けるなら、後につながる試合をしないと意味がない。ここで、思い切って方針を転換しないと、後々まで後悔することになるぞ。よし、自分で納得できる、思い切ったプレーをやろう。フットワークを使って動きに動いて、フォアハンドを振るんだ」
そう開き直ったとたん、伊藤の本来の調子が戻ってきた。次の1本は思い切って回り込み、得意のバックストレートにスマッシュを打ち込んだ。12-14。
そして、次の1本も素早く回り込んで、スマッシュした。幸運にもそのボールは、エッジをかすめた。
「いけるぞ、ついている。このまま強気で攻め続けるんだ」
伊藤は確信し、これがまさに転機の1点となった。
迷いは何もなくなった。
それから後の展開は、完全に伊藤のものだった。木村の狙うサービスやコースが読めるようになり、ボールがいつもより大きく見えてきた。周囲の歓声も耳に入らず、コートの周りをとにかく動き回った。
気がつくと、スコアボードは21-16を示していた。
優勝、全日本選手権大会での優勝である。伊藤はとうとう、日本のトップに立ったのだ。専大に入学した当初は、まったくの無名選手で、上級生に見向きもされなかった伊藤が、いま堂々と表彰台の最上段に上ったのである。
伊藤はすぐに、郷里の母親に電話をした。母親は卓球に関しての知識がほとんどなく、全日本選手権大会だと説明しても、
「まあ、そんなに大きい大会なの? すごいじゃない」
という言葉を返してくるくらいだった。
しかし伊藤には、自分がこれまでがんばってこられたのが、すべてこの母親のおかげだということが分かっていた。70歳も近い母親が学費を稼ぎながら見守ってくれたからこそ、伊藤は自分を奮い立たせることができたのだ。
やっと、おふくろを喜ばせることができる、長谷川たち世界選手権代表メンバーを出迎えた、あの4月29日に一大決心をして、本当に良かったと思った。
明くる日、伊藤は起きるが早いか、自分の写真が躍っている新聞を全部買い集めた。
「ダークホースの伊藤、全日本を制す」
「伊藤繁雄、初優勝。三冠王に」
伊藤は込み上げてくる喜びを、ひしひしと感じた。
ウオーミングアップ
伊藤がこのような成功を遂げられたのには、もう一つ秘訣(ひけつ)があった。それは、伊藤流のウオーミングアップを重視したことだ。
試合の40分ほど前から伊藤は、体育館の裏で30メートルほどの距離を、何度もインターバル走をした。それから、素振りとシャドープレーを丁寧に繰り返した。それも、やり終わったときにユニホームが湿っているくらい、念入りにやるのである。
試合前には疲れるからと、ウオーミングアップを簡素化する選手がいるが、伊藤に言わせると、本番で体を十分に動かすには、これくらいがちょうどいいのである。そうやって体をほぐしているうちに、次第に闘争心がわき、集中力も高まってくる。伊藤は10日間の日程を通してこのアップを続けたため、試合の立ち上がりから十分に体を動かすことができたという。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。