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世界一への道 伊藤繁雄 
球史を革新したドライブ強打王 8

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
 1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=小谷早知 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年9月号を再編したものです


新しい練習計画

 伊藤は、それまでの8×3方式(練習8時間、睡眠8時間、その他で8時間)を改めることにした。長谷川に勝つには、最低でも彼の2倍は練習やトレーニングをしなければならない。長谷川の練習時間は恐らく正味5時間、トレーニングは1時間くらいだろう。それならばと伊藤は、練習を10時間、トレーニングを2時間以上やろうと決めた。しかもこれはあくまで最低ラインで、食事と授業以外の時間もずっと道場で過ごすことにした。常に卓球のことを考えていられるようにするためだ。
 しかし、三日坊主とはよく言ったもので、新しい練習方式に変えてから3日目に、早くも疲労のために、気持ちが萎(な)えてしまった。練習とトレーニングをそれまでの2倍にするという過酷なメニューに急に移したのだから、当然といえば当然である。しかし伊藤はここであきらめたりはせずに、4月29日の卓球日誌を持ち出して来て決心を思い出し、自分を奮い立たせた。
 2週間がたった。あまりにハードな練習内容に体がついてこられなかったのだろう。血尿が出た。さすがの伊藤も、これは無理をしすぎたかなと思った。これでは世界の頂点に立つ前に、自分の体が持たなくなるかもしれない。しかし、伊藤はここで思い返した。
 これで動けなくなってしまうようなら、自分にはそれだけの能力しかなかったのだとあきらめよう。そんな程度では、世界のトップを狙うなど、夢のまた夢だ。
 伊藤はどうしても耐えられないと思うようなときでも、常に道場にいて卓球に対して高い意識を保つというリズムだけは崩さず、卓球からの逃げ道を自分で閉ざした。
 そうしているうちに吹っ切れたのだろう。体質が変わったかのように、つらい練習も大して苦しいと思わなくなった。
 こんな格言がある。

「心が変われば 態度が変わる
態度が変われば 行動が変わる
行動が変われば 習慣が変わる
習慣が変われば 人格が変わる
人格が変われば 運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる」
(心が変われば人生が変わる/ナポレオン・ヒルより)

 たいていの人はある程度決心を固めても、それが習慣として定着しないうちにやめてしまう。大きな結果を残せるかどうかは、決心してから習慣と呼べる段階にまで到達できるかで決まる。習慣を変えることさえできれば、最終的に人生を変えることは比較的容易になるのだという。
 2000年のシドニーオリンピックで金メダルを獲得した女子マラソン高橋尚子選手の監督小出氏も、これに近いことを述べている。
 普通の人は、8割しか力を出していなくても、もう限界だと思ってそこで努力をやめてしまう。ところが高橋選手は違う。周りの目からすると普通の2~3倍の努力をしているのに、自分ではまだがんばり切れていないと信じ、さらなるトレーニングに励むというのである。自分で自分の能力に限界を設けてしまえばそれを超えることはできないが、矛盾を矛盾と思わずに立ち向かえば可能性は無限に広がるという、伊藤の言葉がここでも裏付けられるように思われる。

アジア選手権大会

 新しい練習方式が習慣化したことで、関東学生選手権大会ではシングルス、ダブルスともに優勝した。そしてその実績を買われ、シンガポールで行われるアジア選手権大会への追加出場が認められた。入学前からの目標の一つだった海外遠征が、ようやく実現したのである。

大学3年生の関東学生選手権大会。河野と組んだダブルスで優勝し、
シングルスは2人で決勝を争った


 本大会ではシングルスの準々決勝で、前年のアジア競技大会優勝者、金忠勇(韓国)と対戦し、2-3で敗れた。1~2ゲーム目を先取したのにもかかわらず逆転負けしたのは、暑い国で大会日程をこなせるだけの体力が不足していたのが原因だと思われた。
 最大の敗因はスタミナ切れだったのだが、もう一つ思い当たることがあった。それは、自己管理の甘さである。試合会場があまりに暑かったため、伊藤は炭酸飲料をがぶ飲みしてしまった。適度な水分補給はもちろん大切だが、試合直前に飲みすぎるのはいただけない。試合で勝つためには、自己管理もおろそかにしてはならないことに気づかされた。
 体力不足や自己管理の甘さに足をすくわれたこのような経験は、トレーニングや栄養摂取の重要性にあらためて気づかせてくれたといえる。
 一方で、この大会では得るものも非常に大きかった。強敵を相手に2ゲームを奪ったことは、自分の卓球が外国の強豪選手に対しても通用するのだということを確認させてくれた。技術力はあるのだから、今のフォアハンド主戦の卓球スタイルのままで、スケールを大きくすれば強くなれる、そう思わせてくれる局面が多々あった。
 それまでの伊藤は、「専大を制する者は世界を制す」という部訓をひたすら信じ、世界レベルを視野に入れた練習に取り組んできたのであったが、外国人選手の力を直接に感じたことはなかった。今日のようにテレビ放映がされていたわけでも、交流試合が頻繁に行われていたわけでもなかったからである。ただ、長谷川や河野など、世界で活躍する日本人選手と自分を比べ、世界レベルとの距離を推し量るしかなかったのだ。
 伊藤はこのアジア選手権大会では、団体戦メンバーになれなかった。長谷川、河野、鍵本らメンバーが苦戦を強いられているのを、ただ見て応援するしかなかった。このとき頭に浮かんだのは、1年生のころに聞いた、ある先輩の言葉だった。
「あなたたちは世界選手権大会に出るのが目標でしょう。でもね、個人戦に出られるだけで満足するようでは、専大の選手としては失格よ。団体戦の主力メンバーに選ばれないで個人戦に出るくらいなら、棄権しなさい」
 かつて世界選手権大会の団体戦の主力だった先輩の言葉だけに、かなり重みのある言葉ではあった。しかし、2年前の伊藤には半信半疑だった。日本の代表として世界選手権大会に出られるとすれば、それだけですごいことである。団体戦に出られなかったら棄権するなど、極端な話だと思っていた。
 しかし、アジア選手権大会で団体戦の応援をしていると、俺だったらあんな相手すぐに倒してやるのに、という気持ちが今にも爆発しそうになった。各国の精鋭たちが威信をかけて闘うのが、団体戦の醍醐味(だいごみ)である。日本の代表として国際試合に出るなら、絶対に団体戦メンバーにならないと意味がないと思った。あの先輩の言葉は、決しておおげさではなかったのである。
 初の海外遠征は伊藤のやる気をますます高めてくれた。
 あの4月29日以来、それまでに輪をかけたような苦しい練習に励んできた伊藤だったが、アジア選手権大会で自分の目指すべき卓球のスタイルと目標達成のための課題を明確に定めることができた。スタイルと課題が定まったのだから、あとは迷うことなく、がむしゃらに卓球に向かうのみである。
 少しでもいい方法を思いついたらすぐ実行しようと、ベッドの枕元に
「思い立ったが吉日」
と書いた紙を貼って、怠けそうになる自分を叱咤(しった)激励した。

大学3年の関東学生秋季リーグ戦で優勝。前列右から2人目が河野、4人目が伊藤


昭和42年度全日本選手権大会

 伊藤は、大学3年の全日本選手権大会にベスト8入りを狙って臨んだ。そしてランキング決定を切り抜けてからは勢いに乗って調子よく勝ち、とうとう決勝戦にまで進んだ。対戦相手は長谷川か河野になることを予想していたが、逆のパートからはこの二人を破って、社会人の木村が勝ち上がってきた。伊藤は前年のランキング決定戦で、彼に負けていた。
 世界選手権大会で大活躍した学生二人が敗れてしまったのである。あとは自分しかいない。ここで負ければ、今年の学生は駄目だということになってしまう。
 いよいよ決勝戦を迎え、意を決してコートに出て行くとき、伊藤は木村に
「木村さん、よろしくお願いします。今日は去年の恩返しをします」とあいさつした。(次回へ続く



Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。

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