「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年10月号を再編したものです
世界選手権大会に向かって
積年の目標である世界選手権大会を目前に控え、伊藤の調子はピークに達していた。全日本2連覇を成し遂げた伊藤は、この大会のキャプテンも引き受けた。日本男子の監督は大津史郎、メンバーは伊藤、河野、長谷川、笠井、田阪、井上の6人だった。
伊藤のキャプテンとしてのチームワークづくりは、まず自分が必死で卓球に取り組み、その後ろ姿をみんなに見てもらう、というのを基本にしていた。分からないことがあれば、前回世界選手権1位、2位の長谷川や河野に聞き、メンバーの経験の力を借りて全体の力を高めることに努めた。キャプテンである以上、団体戦で結果を出すことには特に責任を感じ、チームをまとめると同時に、自分の練習にもますます気合を入れた。
初出場の世界選手権大会でゲームを自分のリズムで展開していくためには、相手を圧倒するほどの、徹底した動きの速さや振り、戻りの速さが必要だろう。
こう考えた伊藤は、3球目や4球目までの展開を想定したシャドープレーを分習法や反復法でやって、体に覚え込ませた。
出発
いよいよ明日日本を発つという夜、伊藤はいつもの机の前にきちんと座った。
世界選手権大会の開催地はミュンヘンだったが、メンバーのうち、世界選手権大会出場の経験のない伊藤、田阪、井上の3人は、他の3人とは別に一足先に出発し、ソ連(当時)で交歓試合を行うことになっていた。
伊藤は、昂(たか)ぶる気持ちを抑えるように、目をつぶった。そして静かに卓球日誌を開くと、普段より少し大きめの字で、愛読書の中の一節を書き記した。それは、宮本武蔵の「独行道」だった。
「われ、事において後悔をせず」
滑らす万年筆にも、覚えず、力がこもった。
言うまでもなく、宮本武蔵は、戦国時代末期から江戸時代にかけて活躍した剣豪である。その生涯で、一度も負けたことがないと伝えられているほどの傑物だ。彼が死の直前に熊本の金剛山の中腹にある霊巌洞にこもって綴(つづ)ったこの「独行道」という書には、剣の道に精進する後進への、修行の戒めが収められている。
「一、世々の道をそむく事なし。
一、身にたのしみをたくまず。
(略)
一、我事におゐて後悔をせず。
一、善悪に他をねたむ心なし。
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
一、自他共にうらみかこつ心なし。
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし。
(略)
一、道におゐては、死をいとはず思ふ。
一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
一、身を捨てても名利はすてず。
一、常に兵法の道をはなれず。
正保弐年五月十二日
新免武蔵」
あの第二の誕生日以来、世界に挑戦するのだと固い決意を胸に、すべてを卓球にかけてきた伊藤である。できることはすべてやった、あとは力を十分に出し切るのみだとの強い思いが、自然と武蔵の心境を思い起こさせたのだろう。今こそ自分の力を最大限に発揮するときが来たのだ。
ソ連で
伊藤は田阪、井上とともに、モスクワに向かった。
ソ連は今回の世界選手権大会での活躍が予想されているチームで、中でもエース・ゴモスコフのバックハンドは世界一だといわれていた。
伊藤の得意パターンの一つに、フォア前かバック前によく切れた下回転サービスを出し、相手につながせて強ドライブで先手を取る、というのがある。伊藤は下回転サービスをブッツリと切って出すことができるので、そうそう簡単に払われることはなかった。
ところが、である。伊藤が自信を持ってフォア前に出したこのサービスを、ゴモスコフはクロスに強打した。まったく予想していなかった展開に、伊藤はとっさの判断ができず、打ち抜かれてしまった。
こんなことは、めったにない。伊藤は、自分のサービスの切れが甘かったのだろうと考えた。いつもの回転量を出せば、きっとつないでくるはずである。伊藤は気を取り直して、もう一度下回転サービスを出した。
タターン
さっきと同じだった。今度のサービスは確かに切れた手応えがあったのに、ゴモスコフは少しも躊躇(ちゅうちょ)しているように見えなかった。
「むむ、ハッタリもいいかげんにしろよ」
伊藤はもう一度だけ様子を見ようと、またもや同じサービスを放った。
スターンッ
あまりに鮮やかな払いの技術に、さすがの伊藤も兜(かぶと)を脱がざるを得なかった。サービスはフォア前に頼りすぎず、フォアミドルにも混ぜて出すことで効果を挙げる作戦に転換した。
ゴモスコフにいくら驚異的なラリーを見せつけられても、伊藤はたじろがなかった。最終目標は世界選手権大会の本番で勝つことである。相手が強気の姿勢を見せようとハッタリで打っているのか、それとも本当に得意としている展開なのか、じっくりと腰を落ち着けて何度か試し、冷静に見極めようとしたのだ。
それに伊藤は長谷川から、ソ連の選手についての、こんな弱点を聞いていた。彼らには総じて内弁慶のところがあり、ソ連国内では滅法(めっぽう)強いが、外に出るとなぜか調子を落としてしまうというのである。
「あいつの実力は、これで最大限なんだ。本番でこれよりレベルが上がることはない。俺は逆に本番ではもっと強くなれる」
伊藤はゴモスコフと2度対戦して2度とも負けたが、本番に向けた作戦の材料集めとしての感触は良かった。
バックに不用意に甘いボールを送ると、強烈な攻撃が待っている。フォアハンドが得意な傾向の強い日本人選手と対戦するときの癖で、ついバックにしのいでしまうのは要注意だと分かった。
一方で、伊藤がエースボールとして強化してきたバックストレートへの攻撃は、ゴモスコフのフォアを打ち抜くのに十分だった。相手が警戒して伊藤のバックへの返球を避けようとしているのが、はっきりと見て取れた。
本番でゴモスコフのような選手と当たったら、相手のフォア対自分の全面を使った展開にしよう。相手のフォアは日本選手のバック、相手のバックは日本選手のフォア、これを頭に叩(たた)き込んで向かっていけばいいんだ。
ソ連を発つころには、伊藤の頭におよそこのような作戦ができあがっていた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。