「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年12月号を再編したものです
死闘の跡
「う、うーん」
伊藤は、ベッドの中で大きな伸びをした。でも、起き上がれない。伸びをした後、ねじが外れたように体中がだらりとしてしまい、力が入らないのだ。
ここは西ドイツ(当時)のミュンヘンである。日はとうに高く昇り、窓から柔らかな光を投げかけている。小鳥のさえずりも聞こえてくる。きっと、マリエン広場の辺りを飛び回っているのだろう。何とものどかな朝だ。つい昨日まで、緊張の最中にあった伊藤には信じられないくらいの、穏やかな空気が漂っている。
伊藤は、けだるそうに傍らのショルダーバッグに手を伸ばした。上半身を起こしてバッグのジッパーを開け、中からラケットを押し頂くように取り出す。伊藤はラバーに、はぁっと息を吹きかけながらなで、ごく自然に話しかけた。
「お前もよくがんばってくれたなあ......」
ラケットを握るとあの時の光景がまざまざとよみがえってくるから、不思議なものだ。
「ん?」
伊藤は、ラバーをさする左手を止めた。スイートスポット部分のシートとスポンジの間がはがれて、ラバーが浮き上がっている。ツブがちぎれたのか、接着剤がはがれてしまったのか、いずれにしても、昨日の試合のすさまじさを物語るものだ。
「俺は本当に世界一になったんだ。とうとう頂点に上り詰めたんだ」
伊藤の心の中に、もう一度熱いものがこみ上げてきた。
西ドイツ入り
1969年4月。世界選手権大会の1週間前、伊藤たちの日本選手団は西ドイツで集合した。会場のあるミュンヘンに入る前に、郊外の村で5日間の合宿を行った。気候が日本とよく似ており、最後の調整をするのには適していた。
合宿では、課題点を絞り込んで練習した。イメージ通りに体を動かせるように、「伊藤流」のリズムを分習法で整えた。ゆっくりしたバックスイングから素早い動きに切り替えて相手を惑わすサービス、ボールに向かって襲いかかっていくようなフォームの威力あるドライブ、バックのコーナーぎりぎりまで回り込んで攻め続けるフットワーク。伊藤の卓球に欠かせない重要ポイント、逆に言えば、これさえしっかりとしていれば必ず勝てるという、戦術・技術の根幹の部分である。
サービス、レシーブ、5球目、6球目までの展開を想定したシャドープレーはもちろんのこと、コートの上に万年筆のキャップを置いて自在に狙い打つなどの工夫もした。
世界選手権大会に臨んでの伊藤の目標は、まず団体戦を制することだった。というのも、彼の頭には、母校の専修大学に受け継がれていたある言葉が、強烈に刻み込まれていたのである。それは、かつて世界選手権大会の女子団体戦で日本を優勝に導いた、渡辺妃生子先輩の一言だった。
「海外に出て戦うなら、団体戦で優勝しないと意味がないのよ。団体戦のメンバーになれず、個人戦にだけ出場するくらいなら辞退しなさい。どうせ負けてしまうんだから」
こうハッパをかけられた伊藤は、奮い立っていた。
そうして団体戦で勢いを付けて、個人戦でもベスト4以上を目指す。この時の世界選手権大会は、男女シングルス、男女ダルブス、混合ダブルスの準決勝以上を、最終日にまとめて行う日程で開催されていた。つまり伊藤は、個人戦の全種目で最終日に残って、そこから本当の勝負をすることに懸けていたのだ。
この目標を達成するためには、調子のピークを前半の団体戦と最終日に持っていかなければならない。いざというときに最高の力が出せなくては、元も子もないからだ。10日間の日程のこなし方については、全日本選手権大会での経験をそのまま生かせば、狂いがないと思われた。
自己管理には細心の注意を払って体調を整えており、闘志も十分である。しかし、少しでも気を緩めると、不安が心をよぎる。なにしろ、初めての世界選手権大会である。日本の卓球人のためにも、友人や先輩、家族のためにも、日本チャンピオンの名に恥じない、立派な成績を残さなければならない。そう思うと、自然と体が硬くなる。
これまでの傾向から、日本選手は世界選手権大会初出場での優勝の可能性が高いと言われていた。男子では佐藤、荻村、田中、長谷川、女子では大川、松崎、深津、森沢の各選手が、この偉業を成し遂げた先人として挙げられる。伊藤はこれを自分に当てはめて、弱気になりそうな自分を鼓舞した。
ゴモスコフ戦
団体戦で日本男子は、ハンガリー、デンマーク、イングランド、ユーゴ、ソ連(当時)に勝って、準決勝リーグを突破した。決勝戦の相手は、西ドイツだった。
開催国としての勢いも手伝った西ドイツは難敵だったが、日本代表の伊藤、長谷川、河野は5-3でこれを下した。2大会連続7回目の優勝だった。
男子シングルスでも伊藤は、当初の思惑通り順調に勝ち進んだ。その伊藤が準々決勝で対戦したのは、ソ連のゴモスコフだった。直前の交歓試合で2連敗している、あのゴモスコフである。
しかし、今度の伊藤には勝算があった。交歓試合を通して練り上げた、対ヨーロッパ選手の戦術を使うときが来たのだ。すなわち、「相手のフォアハンドは日本選手のバックハンド、相手のバックハンドは日本選手のフォアハンド。相手のフォア半面と自分のコート全面を使って、フォアハンドで攻める展開にする」という作戦である。
立ち上がり、ゴモスコフは下回転サービスを、伊藤のバックに出してきた。
タタタタ、ガバーッ。
伊藤はすかさず回り込んでバウンドの頂点をとらえ、得意のバックストレートへドライブで攻めた。しかしゴモスコフも伊藤のこのレシーブを読んでいて、スナップを利かせた打球点の早い合わせ打ちで、フォアクロスに返してきた。コーナーを切る鋭いボールで、ノータッチで抜けていく、と観客の誰もが思った。
ところが、こっちはのんきに構えているような伊藤ではない。ゴモスコフの動きを読んでコースを見極め、しゃにむにボールに飛びついた。
すると、奇妙なことが起こった。ボールが伊藤の腰に命中したのである。ノータッチで抜かれると思われたボールに、伊藤は追い付いたばかりではなかった。勢い余って、ストライク位置から半歩分も行き過ぎてしまったのである。
伊藤の「珍」プレーに、観客席からは失笑が漏れた。しかし当の伊藤は、この時すでに勝利の手応えを感じていたという。
「俺の足は、自分が思っている以上に速く動いている。今の失敗は、絶好調だということの証明なんだ。うん、自信を持ってやっていい」
その後の展開は作戦通りだった。コートの周りをひたすら動き回り、強ドライブでゴモスコフのフォアを攻め続けた。そして、それまでの2敗がうそのような会心の内容で、この試合を制したのである。
伊藤 21-18、21-16、21-15 ゴモスコフ
(編集部注:当時は1ゲーム21ポイント制)
伊藤の強ドライブには、ますます磨きがかかってきた。しかしこのとき、鋭い観察眼で興味深いことを見抜いた人がいた。元世界チャンピオンの荻村伊智朗氏である。彼は伊藤にこう話したという。
「伊藤、今日のバックハンドはよかった。ゴモスコフが鋭くバックに送ってきてもまったく後退せず、体の前でボールをとらえて、上から打ち下ろすようにストレートに持っていっていた。つなぎのバックハンドとはいっても、打球点が高くて勢いがあったから、ゴモスコフにすきを与えなかったな」
強ドライブとスマッシュで次々に得点を決める、豪快な面が強調されがちな伊藤のプレースタイルだが、その裏には、チャンスを引き出すためのしっかりとしたつなぎ技術があったのである。確実で、しかも相手の弱点を突くバックハンドが下支えになっていたからこそ、伊藤のフォアハンド技術は光ったのだ。ここでももちろん、鍛錬に鍛錬を重ねて身に付けた下半身の力、特にひざの柔軟性が発揮されていた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。