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わたしの練習㊱磯村淳 中国のカットを目標として

 卓球との結びつきは、家に卓球台があり、毎日夕食後家族とともに食後の楽しみとして良くゲームをして遊んだのがきっかけでした。
 中学に入学するころ、姉が京浜女子商(神奈川)のマネジャーをやっていた関係で、自然と卓球に親しみを覚え、すすんで入部しました。ちょうど、そのころ、明大を卒業され、新しく監督になられた難波先生といっしょにスタートをきったことは、わたしにとって、非常に幸いなことでした。先生は現役時代、独特なカットで知られた方だけに、カットについての知識は深く、その影響もあって、カットに興味を覚え、それまでの攻撃主戦のプレーを捨て、ペンホルダーのカットに移りました。そのころ、世界選手権大会(1956年)が東京で開催され、そのとき、ルーマニアのロゼアヌ選手の本格的なプレーを眼前に見、そのすばらしさに魅了され、なんの抵抗も感じないで転向しました。

 ◇ボール拾いとトレーニングの中学時代

 中学の1、2年のころは、実際にボールを打つ時間は少なく、毎日ほとんどボール拾いやフォーム練習、トレーニングなどの連続でした。練習するときは、カットの第一段階である確実に入れることを目標にしたワンサイド練習やツッツキなどの基礎練習が中心でした。
 高校に進んでからは、時間も豊富となり、普通は1日4時間、日曜祭日は朝9時から午後5時まで、きびしい練習の毎日でした。基礎練習が多く、なかでも、フットワーク、特に前後の動きに重点をおき、30分は必ず行うように努めました。その他、カット対策として、ツッツキ練習(ねばること、打たれたボールの処理)を徹底的に行い、また、低く深く返球することや、カットの変化をつける技術を身につくまで、毎日やりました。試合の10日前からは、実戦練習に力を入れました。

 ◇夏の合宿に石油ストーブ

 高校時代特に印象に残ったのは、全国大会を1ヵ月後にひかえた昭和34年7月の合宿です。名古屋の暑さを予想して、暗幕を張りめぐらしたなかに、石油ストーブを入れ、その上、蒸気で熱した所での練習は、まさに、焦熱地獄そのものでした。あまりのつらさに、逃げ出したい気持ちを何度か押さえ、がんばりとおした結果、一応満足な成績を得た喜びとともに、ねばりの精神と団結力の尊さを学んだことは、最大の収穫でした〔シングルスに優勝〕。この気持ちを支えとして、さらに一段と進んだ技術の向上を求めて、大学に進学しました。
 専修大学では同じ目的を持った選手が全国から集まり、恵まれた環境のなかで、優秀な監督先輩方の指導を受け一層充実した生活を送ることができました。
 技術面では、高校には通用したわたしのカットも、大学ではそれ以上高度な技術を必要とし、自己のプレーの未熟さを知らされ、スランプに陥ることもしばしばありました。直接の原因はラバーの問題であり、高校2年まで使用していた2枚張り裏ソフトが禁止になり、3年のはじめに一枚ラバーにかえてみたものの、攻撃が思うようにできず、満足なプレーがなかった。あせればあせるほど、ますます自信をなくし、選手生活も短大卒業とともに、断念しようと思いました。しかし、きびしい監督の忠告を受け、甘かった自己の考えを反省し、新たなファイトで第一歩から出なおす決心で、3年に進みました。ラバーも現在使用している裏ソフトにかえた結果、一枚ではマスターできなかった攻撃力も徐々につき、カットもある程度まで使いこなせるようになりました。
 大学時代の練習は、普通週1回だけ自由練習日があるほかは、1日平均4時間ないし5時間で、日曜祭日も変わりありませんでした。規定練習は、クロス打ち、フットワーク、ショート打ち、ツッツキ打ち、カット打ち、ゲームといった一連の基礎練習が主体でした。

 ◇苦手なランニングを克服して

 そのなかで、わたしの場合は、カットから攻撃に移る練習に力を入れました。はじめ、ワンサイドだけに打ってもらい、ロングとストップとを1本1本ゆっくり返してもらう。確実性を増したら、オールサイドに動かしてもらい、相手に、好きなときにストップをまぜてもらう。最初は、カットだけで正確に返球することを条件とするが、余裕が出てきたら、ストップボールを飛びこんで打つ練習をしました。試合などでよく相手がカットを打ちあぐんだ際、ストップを入れてくることが多いので、出足さえよければ、そのストップをねらって、ポイントに結びつけることも可能になります。またコントロールの練習も、はじめはワンサイドばかり数百回続ける練習をし、徐々にコースをかえ、自分のフォア(またはバック)から相手のコートを3等分して、フォア、ミドルバックと交互にくり返し返球する練習をしました。
 試合前の練習では、簡単にひととおりの基礎を行った後、勝ち抜き戦形式、あるいはブロックに分けて、リーグ戦をやる場合もあります。トレーニングは合宿のときもふだんも関係なく、体操を前後にはさんで、ランニングを平均4~5㎞毎日走りました。1年のころ、半年ほど、通学していた関係で、毎朝のトレーニングに参加できなかったため、他の選手と走力の差ができてしまいました。いっしょにスタートしても、ゴールではいつもひとりになるので、よく自主トレーニングをしているのか、と言われました。最初からこのような状態であったため、走る意欲をなくし、今もってランニングは苦手です。しかし、どうしても必要であるから、短時間ではありますが走ることにしています。その他は、柔軟体操、腕立て、腹筋運動などをやりました。
 強制練習と言って、自分のつごうのよいときに、決められた時間を消化する方法は、ふだんの練習でたりない技術を補う意味でも、非常に効果的でした。ちょうど、この期間中にラバーをかえたので、比較的早く裏ソフトの特質になれることができました。
 社会人ともなれば、練習に対するいろいろな障害が起きるのは当然ですが、時間的に恵まれているわたしでも、学生のときのように、相手を自由に選んで、いつでもできる、というわけにはいきません。練習は、相手のつごうもあって不規則ですが、普通、週5日間練習するよう努めています。試合が近づいた場合は、専大に泊りこんで、学生と一緒に練習することもあります。学生時代にくらべて、問題にならないほど、短い時間です。
 それゆえ、1本でもむだにできません。一球一打精神を集中させ真剣に練習しなくてはなりません。

 ◇フットワークを中心に

 現在の練習はフットワークを中心にしています。カットマンにとって、動きがにぶることは致命的だからです。
 強化対策本部ができた今日、毎月の強化合宿は、練習上の問題を解決してくれるし、それに参加することは、大きな励みとなり、技術的にもたいへんプラスになります。
 最後に、世界選手権、遠征試合などで感じたことは、
①精神的な面で劣等感を持っている限り、勝つことはむずかしい。そのためには、自分のカットに自信を持つこと。
②執着心が強くなくてはだめだ、ということ。
③中国のカットマンとの差は、基本技術の差である、ということ。広範囲な守備力とツッツキの確実性は、精神力と研究心によって身につけた基本技術に裏づけされて、発揮されるのだ、ということ。
 今後は、当面の目標を、中国のカットに置いて、このすぐれた技術を、学びとることを課題として、精進して行きたいと思います。

いそむら すなお 1965年世界選手権日本代表、
1965年度全日本第4位、専大出、シェークのカットマン

(1966年6月号掲載)

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