中学校で卓球の練習を見ているうちに「おもしろそうだなぁ」と興味を持ち、やり出したのは小学校の5年生ごろでした。洛南中学からあこがれの東山高校に入学しましたが、卓球部の先生は5人もおられ、3年生には田阪さん、西田さん、2年生には土岡さん、同僚にも京阪のつわものが大挙して入部しており、恵まれた環境の中で苦しい練習が始まりました。
◇田阪先輩の優勝→一にも二にも練習
1年生に課せられた練習は、クロス、ストレートのロング・ショートおよびショート打ち、左右前後のフットワークとその応用練習がおもなものでした。ただ、「先輩に打ってもらおう、先輩の練習相手になろう」と思って、規定練習が終わっても1年生同士の競争が続きました。その年のインターハイ、男子シングルスで先輩の田阪さんが優勝されたとき、それはもうたいへんな感激でした。「努力の鬼、田阪さんの優勝は当然だ。努力している人は勝てるんだ」と思ったからです。ぼくも「田阪さんのようになりたい」と強く思いました。そのためには一にも二にも練習であり、その課題は山ほどありました。コントロールがない、変化についていけず試合にむらが多い、などは、なんといっても克服しなければならないことでした。
初春、1月3日には熊谷商高、徳島市立高、近大附属高が遠征にこられ練習試合がありました。だがぼくは足を負傷し、その試合には残念ながら参加できず、また足の痛みで2カ月間練習ができませんでした。この間授業が終わってからは、打球感を忘れないため練習の見学でした。三木君はじめ同僚が一段と強く見え、ぼくとの実力の差がだんだんひらいていくようで、ただあせるだけで帰宅後は卓球理論(卓球部には知っておかねばならないことがらについてのプリントが30枚ほどあります)を何回となく読み返し、腹筋、鉄アレイ振り、腕立てふせなどを毎日くり返しました。この時期はぼくにとって一番苦しかったときであり、「早く卓球がしたい」と何度思ったかしれませんでした。春休みには2カ月間のブランクを取り返そうと思い必死で練習をしました。
この年も念願であったはずのインターハイの予選で負けてしまいました。試合になると積極的な作戦がとれなく、消極的な試合運びしかできない自分が、つくづくいやになりました。もっとずぶとい神経の持ち主になりたいと幾度となく思いました。先生からは、「選手はコートにつけば孤独であり、それに耐えなければならない」として、自分のプレーに確信をもち、試合には自分の、技術で堂々とやりぬくことをさとらされ、「ふだんから自分をいじめていればなんでもない」と注意を受けました。また、京阪神大会、近畿大会ともにカットマンに負けてしまい、その後の試合で丸いラケットを見るたびに、「あっ、どうしよう」ということばが先に出てしまい、技術的な作戦を考える余裕がないほどカットマンとの対戦をおそれました。そんなときに、インターハイで先輩鹿乗さんと組んだダブルスで3位に入賞することができたことは、ぼくにとってたいへん大きな自信となりました。
インターハイが終わると、いよいよぼくたちの時代がやってきました。先生から、「全日本硬式めざしてこれからの練習に取りくむように」と注意があり、「よし、来年のレギュラーになるためには全日本でがんばらなくては…」と思い必死で練習に取りくみました。練習内容は、ラリーを中心に、変わり身、カット打ち、ロングマンとオールランド攻撃範囲をひろげるための応用練習、ゲームなど、長時間の練習でした。
全日本選手権の前はコンディションが非常に悪かったのですが、「調子の悪さを闘志によって忘れさせる。その結果、自然に自分のプレーができるものだ」と試合前日のミーティングで注意されたことを忘れずに、むちゃ打ちせずボールを大切にして戦いました。幸運に恵まれ、わたし自身信じられなかった優勝という栄冠を手にすることができました。このことはぼくにとって、なにものにもかえられない自信となりました。
◇合宿とミーティング
ことしも例年と同じく1月1日に初練習を行いました。今年こそは、と心機一転して練習にはげむように心にちかいました。1月3日から今井先生宅で合宿がありましたが、冬の合宿は初めて計画されたものです。その意味でも先生のぼくらへの期待がひしひしと身に感じられ、責任感をおぼえました。練習内容は自分の主戦技術とコースとの関連、6球までの速攻、ネットプレー、バックハンド、ダブルス、スマッシュ、カット打ちでした。練習時間も午前9時から午後5時までの長時間にわたる練習でしたので、スタミナの訓練にもなりました。
強化練習にあたっては、「無心で練習にとりくむこと」「研究心をもつこと」「自分の立場を考えて練習をする」などの戒めがありました。自分自身で組んだ練習課題に誤りがないかどうか。また心、技、和、知について数回ミーティングが行われました。春休みは、体力トレーニングを主としたものでした。長距離、ダッシュ、腹筋、マット運動、馬飛び、バーベルと鉄アレイを用いてウエイト・トレーニングもありました。ウエイト・トレーニングをしたことから、スマッシュにスピードが出てきたように思いました。
その後の強化練習では1月の合宿でやった練習課題を中心に、スマッシュ、レシーブ・スマッシュ、ツッツキ打ち、変わり身(フォアハンドとショート、フォアハンドとバックハンドのきりかえ)を加えていきました。強化練習の目標は幅のひろいプレーを身につけることでした(たとえば、ショートでもプッシュ性、ストップ性、そのコースの配分など)。わたしの目標は、ドライブロングを主戦として幅のひろいプレーを身につけることでした。これらの強化練習の成果として、実戦にもレシーブ・スマッシュ、バックハンドが使えるようになりました。
6月はわたしにとって一番苦しい時期でした。夏のコンディションづくりでむずかしいのは体力面だといわれましたので、6月は限界まで身体を訓練することでした。インターハイは5日間あることから、指定される練習はフットワークを中心としたものでした。6月下旬にシチズン時計に行き、いろいろと有意義なアドバイスを受け、以後最終合宿までネットプレーからのオールサイズとカット打ち(スマッシュ・チャンスをつくるため、ドライブとストップでねばる)を主として練習しました。だが、実戦でのカットマンとの対戦では粘ることはできませんでした。
◇恵まれた環境で
学期末試験が終わってすぐに富山での合宿が行われました。第1日目のミーティングで、「精神力の鍛錬、コンディションの調整をしながら、新人のつもりで練習に励む」ようにいわれました。合宿での練習内容は、いままで練習してきたことを近畿大会、インターハイに出せるように総復習しました。中でも自分の長所をできるだけ多く練習するようにしました。インターハイの開会式のときには、「全力を尽くすだけだ」と度胸を決めましたが、団体戦で日大一高に敗れ、ダブルスもベスト8進出をはばまれました。このため大きなショックをうけましたが、みんなで励まし合い「一戦一勝主義」ということばを忘れないで、21本取るまでがんばりました。団体戦では勇気ある試合運びができなかったぼくを、先生をはじめみんなが励ましてくださったおかげで岩井君(徳島市立高)を破って優勝することができました。熱心な指導者のもとで、良き先輩、良き同僚をもち、恵まれた環境の中で練習できたことは、幸福であることは申すまでもなく非常に感謝しております。
いま、ぼくはインターハイが終了して精神的にホッとしたところですが、先生から「技術には限界がない、一刻も油断するな」と言われています。ぼく自身としても幅のひろいプレーを目標に、多くの技術を身につけ、高校生活を悔いることのないように、一歩一歩前進していきたいと思っております。
たかはし みつゆき 京都・東山高3年。
右利き、裏ソフトの攻撃選手。
昭和42年度全国高校No.1
(1967年11月号掲載)
◇田阪先輩の優勝→一にも二にも練習
1年生に課せられた練習は、クロス、ストレートのロング・ショートおよびショート打ち、左右前後のフットワークとその応用練習がおもなものでした。ただ、「先輩に打ってもらおう、先輩の練習相手になろう」と思って、規定練習が終わっても1年生同士の競争が続きました。その年のインターハイ、男子シングルスで先輩の田阪さんが優勝されたとき、それはもうたいへんな感激でした。「努力の鬼、田阪さんの優勝は当然だ。努力している人は勝てるんだ」と思ったからです。ぼくも「田阪さんのようになりたい」と強く思いました。そのためには一にも二にも練習であり、その課題は山ほどありました。コントロールがない、変化についていけず試合にむらが多い、などは、なんといっても克服しなければならないことでした。
初春、1月3日には熊谷商高、徳島市立高、近大附属高が遠征にこられ練習試合がありました。だがぼくは足を負傷し、その試合には残念ながら参加できず、また足の痛みで2カ月間練習ができませんでした。この間授業が終わってからは、打球感を忘れないため練習の見学でした。三木君はじめ同僚が一段と強く見え、ぼくとの実力の差がだんだんひらいていくようで、ただあせるだけで帰宅後は卓球理論(卓球部には知っておかねばならないことがらについてのプリントが30枚ほどあります)を何回となく読み返し、腹筋、鉄アレイ振り、腕立てふせなどを毎日くり返しました。この時期はぼくにとって一番苦しかったときであり、「早く卓球がしたい」と何度思ったかしれませんでした。春休みには2カ月間のブランクを取り返そうと思い必死で練習をしました。
この年も念願であったはずのインターハイの予選で負けてしまいました。試合になると積極的な作戦がとれなく、消極的な試合運びしかできない自分が、つくづくいやになりました。もっとずぶとい神経の持ち主になりたいと幾度となく思いました。先生からは、「選手はコートにつけば孤独であり、それに耐えなければならない」として、自分のプレーに確信をもち、試合には自分の、技術で堂々とやりぬくことをさとらされ、「ふだんから自分をいじめていればなんでもない」と注意を受けました。また、京阪神大会、近畿大会ともにカットマンに負けてしまい、その後の試合で丸いラケットを見るたびに、「あっ、どうしよう」ということばが先に出てしまい、技術的な作戦を考える余裕がないほどカットマンとの対戦をおそれました。そんなときに、インターハイで先輩鹿乗さんと組んだダブルスで3位に入賞することができたことは、ぼくにとってたいへん大きな自信となりました。
インターハイが終わると、いよいよぼくたちの時代がやってきました。先生から、「全日本硬式めざしてこれからの練習に取りくむように」と注意があり、「よし、来年のレギュラーになるためには全日本でがんばらなくては…」と思い必死で練習に取りくみました。練習内容は、ラリーを中心に、変わり身、カット打ち、ロングマンとオールランド攻撃範囲をひろげるための応用練習、ゲームなど、長時間の練習でした。
全日本選手権の前はコンディションが非常に悪かったのですが、「調子の悪さを闘志によって忘れさせる。その結果、自然に自分のプレーができるものだ」と試合前日のミーティングで注意されたことを忘れずに、むちゃ打ちせずボールを大切にして戦いました。幸運に恵まれ、わたし自身信じられなかった優勝という栄冠を手にすることができました。このことはぼくにとって、なにものにもかえられない自信となりました。
◇合宿とミーティング
ことしも例年と同じく1月1日に初練習を行いました。今年こそは、と心機一転して練習にはげむように心にちかいました。1月3日から今井先生宅で合宿がありましたが、冬の合宿は初めて計画されたものです。その意味でも先生のぼくらへの期待がひしひしと身に感じられ、責任感をおぼえました。練習内容は自分の主戦技術とコースとの関連、6球までの速攻、ネットプレー、バックハンド、ダブルス、スマッシュ、カット打ちでした。練習時間も午前9時から午後5時までの長時間にわたる練習でしたので、スタミナの訓練にもなりました。
強化練習にあたっては、「無心で練習にとりくむこと」「研究心をもつこと」「自分の立場を考えて練習をする」などの戒めがありました。自分自身で組んだ練習課題に誤りがないかどうか。また心、技、和、知について数回ミーティングが行われました。春休みは、体力トレーニングを主としたものでした。長距離、ダッシュ、腹筋、マット運動、馬飛び、バーベルと鉄アレイを用いてウエイト・トレーニングもありました。ウエイト・トレーニングをしたことから、スマッシュにスピードが出てきたように思いました。
その後の強化練習では1月の合宿でやった練習課題を中心に、スマッシュ、レシーブ・スマッシュ、ツッツキ打ち、変わり身(フォアハンドとショート、フォアハンドとバックハンドのきりかえ)を加えていきました。強化練習の目標は幅のひろいプレーを身につけることでした(たとえば、ショートでもプッシュ性、ストップ性、そのコースの配分など)。わたしの目標は、ドライブロングを主戦として幅のひろいプレーを身につけることでした。これらの強化練習の成果として、実戦にもレシーブ・スマッシュ、バックハンドが使えるようになりました。
6月はわたしにとって一番苦しい時期でした。夏のコンディションづくりでむずかしいのは体力面だといわれましたので、6月は限界まで身体を訓練することでした。インターハイは5日間あることから、指定される練習はフットワークを中心としたものでした。6月下旬にシチズン時計に行き、いろいろと有意義なアドバイスを受け、以後最終合宿までネットプレーからのオールサイズとカット打ち(スマッシュ・チャンスをつくるため、ドライブとストップでねばる)を主として練習しました。だが、実戦でのカットマンとの対戦では粘ることはできませんでした。
◇恵まれた環境で
学期末試験が終わってすぐに富山での合宿が行われました。第1日目のミーティングで、「精神力の鍛錬、コンディションの調整をしながら、新人のつもりで練習に励む」ようにいわれました。合宿での練習内容は、いままで練習してきたことを近畿大会、インターハイに出せるように総復習しました。中でも自分の長所をできるだけ多く練習するようにしました。インターハイの開会式のときには、「全力を尽くすだけだ」と度胸を決めましたが、団体戦で日大一高に敗れ、ダブルスもベスト8進出をはばまれました。このため大きなショックをうけましたが、みんなで励まし合い「一戦一勝主義」ということばを忘れないで、21本取るまでがんばりました。団体戦では勇気ある試合運びができなかったぼくを、先生をはじめみんなが励ましてくださったおかげで岩井君(徳島市立高)を破って優勝することができました。熱心な指導者のもとで、良き先輩、良き同僚をもち、恵まれた環境の中で練習できたことは、幸福であることは申すまでもなく非常に感謝しております。
いま、ぼくはインターハイが終了して精神的にホッとしたところですが、先生から「技術には限界がない、一刻も油断するな」と言われています。ぼく自身としても幅のひろいプレーを目標に、多くの技術を身につけ、高校生活を悔いることのないように、一歩一歩前進していきたいと思っております。
たかはし みつゆき 京都・東山高3年。
右利き、裏ソフトの攻撃選手。
昭和42年度全国高校No.1
(1967年11月号掲載)