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わたしの練習51小野恵美子 前陣速攻に徹して

 わたしが卓球を知ったのは、小学6年生のころだったと思います。姉に2、3度卓球場へ連れて行ってもらったのがキッカケです。それ以来卓球が忘れられず、中学校へ行ったら卓球部に絶対入ろうと心に決めていました。中学校に入ったときは他のクラブなど目もふれず、すぐに卓球部の部室へ行きました。

 ◇自分に合ったフォームで

 中学校は家から近い四天王寺学園へ進学しました。わたしが入った当時はまだ弱く、試合はいつも2、3回戦どまりで高校生の人たちは4位ぐらいでした。(四天王寺学園には中学、高校と両方ありました)上級生が少なかったので、1年生のときからチーム戦に出してもらうことができましたが、出れば負けるといった状態でした。2年になり少し卓球らしくなって、3年生の阪本さん(現在専大)を中心にめきめきと腕を上げて、大阪の試合では勝てるようになりました。そのころ田中先生(現在大阪・興国高教論)がコーチとしてこられ、中・高校生を指導していただけるようになりました。前より練習時間も長くなり、みんなも強くなっていきました。そして中学校で一番大きな近畿大会で団体優勝、単2位、という成績が得られました。この単2位は藤原さん(現在日本生命)に負けたのですが、チーム戦では勝っています。このころからチーム戦には強かったようです。
 中学で一番つらかったことは、自分の変なフォームのことです。みんなの美しいフォームをいつもうらやましく思い、家に帰って毎日素振りを何百回、何千回とやってみましたがどうしてもうまくいかず、もとのフォームになってしまいます。そんなことで、一時学校に行くのがいやでたまらなかったときに、田中先生の後輩である佐藤さん(現在愛泉高教論)が「いくら変なフォームでもボールのあたる角度が大切なのだ。角度は良く自分に合ったフォームなので、決して変なフォームではない」と言ってくださいました。それ以来、自分の自己流のフォームが気にならなくなり、「変なフォーム」とか「変な卓球ね」と言われても気にせずに、むしろ他人と違った卓球がますます好きになっていきました。

 ◇動いて動いて動きまわる

 高校は同じ四天王寺学園に入りました。中学生のときとは違い、また一段と厳しく、毎日夜おそくまで、くたくたになるまで練習をしました。練習内容は、おもにフットワークとツッツキ打ちです。相手より先に攻めるというのがわたしの卓球なので、レシーブのときも自分のペースに持ちこむために回り込んで打つ練習など、動く練習が多く、サービスと3球目・5球目、ショート打ち、カット打ちなどを中心にそれらの応用練習、たとえばカット打ちならスマッシュやストップを入れたり、カット打ちでのフットワークなど、変化のある練習をしました。
 試合が近くなってくると、サービスと3球目攻撃の練習やゲームの練習が多くなり、試合のないときに基本練習をみっちりやります。基本練習はあまり気がのらないので、何分間に何本と田中先生が決めてくださるのを目標にがんばりました。ショートの練習はあまりせず動く練習が多かったのですが、先生からもショートを多用してはいけないと言われていましたし、事実ショートを多用したときは負けた試合が多かったようです。しかし、左の選手に弱かったのはショートがへただったことにあると思います。
 1年でありながらさいわいにもインターハイに出場できました。チーム戦は真岡女高(栃木)に3対0で敗れ3位でした。シングルスは優勝候補といわれていた山口・柳井高の藤井さんとあたりましたが、チーム戦で対戦していたので相手の弱点などがよくわかっており、勝つことができました。でも、そのあと大島さん(現在東洋レーヨン)のショートにふり回されて負けてしまいました。自分にスマッシュ力があれば…と、このときほど強く感じたことはありません。それが残念で仕方なかったので帰ってから練習したものの、スマッシュ力がつくどころか、ますます変になる一方でどうしてもそのコツがつかめず終わってしまいました。いま考えると、このとき調子が悪くなってもスマッシュのコツを覚えるまで練習すればよかったと思います。

 ◇中国遠征でショートを学ぶ

 2年生のとき最高に良い思い出となったのは、ジュニアで日本代表に選ばれ中国遠征したことです。中国式タイプのわたしにとって、この遠征で中国の人たちのショートを覚えて少しはショートらしきものができるようになりました。中国での対戦成績は7勝4敗でした。自分にとっては思いがけない好成績だったので自信がつき、本当に有意義な遠征となりました。
 その後12月に行われた京阪神大会において、中国遠征の成果があらわれたのか、団体、単に優勝することができました。こうして3年を迎え、8月の近畿大会においても団体、単、複に優勝しました。ところが高校最後のインターハイでは団体、複に優勝できたものの、最低のコンディションで、いままでの練習に練習を重ねた甲斐(かい)もなく、シングルスはランクにも入れない結果に終わってしまいました。

 ◇スマッシュの強化が課題

 このころから東京の大学に行って自分を試してみたい気持ちが強くなり、周囲の反対を押し切って中央大学に進学しました。授業に出た後の練習は、高校のときのように先生の指導がなく、ほとんど自由練習で、すべて自分で考えてやらなければならなくなりました。台が5台で部員数が多いので、ほとんどコート半面しか使えず、はじめのうちはどのように練習してよいのか要領がつかめず、伸び悩みの状態が続きました。
 だんだん慣れてくるにしたがって、練習方法もわかりコートのオールサイドを使って練習するために、朝早く練習場に出てフットワークや、3球目攻撃や、フォアハンドとショートの切りかえ練習をするようになりました。みんなが来てコート半面しか使えないときは、ショートの強化やツッツキの変化の練習や、ツッツキ打ち、カット打ち、ワンクロスだけでフォアとバックショートの切りかえなど、いろいろ工夫しました。自分の卓球を伸ばすために現在でもこういった練習を続けています。
 2年の関東学生選手権でいままで勝てなかった直井さん(専大)に勝つことができ、わたしにとって大きな自信となりました。しかし準決勝で阪本さん(専大)に2対0で簡単に敗れ、自分のスマッシュ力のなさを再び感じさせられました。自分ながら情けなく思い、その日からスマッシュ練習に重点をおいて練習しました。どうしてもスマッシュのコツがわからず悩んでいるとき三木監督から腰の使いかたを教わり、対ショートから3本目にフォアへ回してもらったボールをクロスへ思いきりスマッシュする練習をしているうちにコツをつかむことができました。いままでは腕だけで強く打とうとしていたのですが、それからは腰の回転によって前進の力を集中させてスマッシュできるようになりました。それを自分のものにするために練習を重ねました。ショートから回り込んでスマッシュ、フットワークからのスマッシュ、カット打ちからのスマッシュ、といったように、最後に必ずスマッシュにもっていくような練習をしました。その練習によって大学対抗はベストコンディションにもっていくことができました。
 今後の課題は、スマッシュの強化と自分の長所である前陣速攻の卓球をより伸ばすこと。それに並行して精神面の強化にあると思います。これらはトレーニングなどをして自分に打ち勝ち、人よりも努力することで少しずつでも良くなっていくと思います。これからも“努力の前に不可能なし”ということばを忘れずにがんばります。わたしの最大の抱負は、中国の人たちと対戦して勝利を得ることです。


おの えみこ 中央大学2年。右利き、裏ソフト、
ペンの攻撃選手。昭和41年度東日本学生第2位。
去年の全日本選手権で深津、山中両選手を破った


(1967年12月号掲載)
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