私が初めて全国大会に出場したのは、昭和26年の広島国体ですから、選手生活も20数年になります。これだけ長い間卓球生活をおくっていますと、昔の友だちは「いいかげんにやめたら」、などとときには言われますが、私自身これだけ長年卓球をしていても、自分自身でパーフェクトと思える卓球ができないので、今後もパーフェクトな卓球を目指して練習に励むつもりです。
~フットワーク練習に明け暮れた大学時代~
今までの卓球生活をふり返ってみますと、非常に恵まれた卓球生活を経過してきました。これは卓球の基礎を徹底的に指導されたことが大きな力になっています。四国の愛媛津島の山奥で練習していた高校時代は、フォアハンドの強打一本槍でした。正直なところ、そのころはフットワークはどのように動くかも知らない我流でした。もちろんラバーの張り替えも知りませんでした。大阪の大学に入って初めてフットワークの練習をしたが、始めのころは明けても暮れてもフットワークの練習でした。幸い私は高校時代に、自転車通学(往復約32km)で山道を走っていた関係で足腰には自信があり、苦しいフットワークの練習もアゴを出さず、ついて行けたと思います。
大学に入ってからは、一流選手と対戦する機会も多く、からだの小さな私は、フォアハンド一本槍ではどうしても不利な場合が多く、バックショートや、バックハンドが必要となりましたが、フットワークも満足にできないうちからショートやバックハンドを振れば、「フットワークが中途半端になる」と言って、主戦武器のフォアハンドを生かせるフットワークができるまでは、他の練習は禁止されるようなときもありました。現在の私の卓球は、あくまでもオールラウンドプレーを目指していますが、バックハンドやショートは、フォアハンドを生かすための予備武器であり、当時のフットワーク練習がなかったならば、現在まで卓球を続けることはとうていできなかったと思います。バックショートの練習に引き続いて、バックハンドを試合で意識せずに振れるようになったのは、大学も終わりに近い、昭和32年の全日本からです。このときの試合でバックハンドが振れなかったならば優勝することはおろか、ランク入りも難しかったと今でも思っているほどです。
~毎朝ランニングした東洋レーヨンでの寮生活~
大学当時の私は、強くなろうという気持ちは人一倍強かったが、コーチの言う通りのことをこなした、一種のロボットであり、自分から自分自身の卓球を見きわめて積極的に研究するだけの余裕はなかったような気がする。自分である程度考えながら練習に打ちこんだのは、社会人になってからです。当時は、同じ会社(東洋レーヨン)に世界的プレーヤーが多く、会社での練習は常にゲームをとり、いったん負けると次のゲームまで30~40分待たなければなりません。このときほど、練習試合といえども敗者のみじめさを知らされたことはありません。このときは、卓球部の選手全員が寮生活で、私は毎朝、スケートの高見沢選手とランニングを行ったことが、練習量の比較的少なかった時期の体力養成にもなりました。
~再度やる気をおこさせてくれた日卓協の合宿~
昭和35年の全日本を最後に、山泉姓から伊藤姓になり、大阪で再び卓球生活をおくることになり、母校の樟蔭女子大のコーチもかね1日5~6時間の練習が始まりました。練習量の多い毎日で、自分自身、体力的な低下は感じませんでした。昭和39年に子供が誕生してから、主婦であり、母親であり、一時練習もままならぬこともありましたが、根っからの卓球好きなのか、子供をつれて練習場へ。見ているだけでは気がすまず、ついラケットを持ち学生相手の練習をする。このときの経験は今の私に、大きなプラスになっているような気がします。なぜなら、当時毎朝3~4kmのランニングは続けていたものの、30歳代になるとどうしても、20歳代と比較すると体力はわずかではありますが乏しくなり、しかも自分より下の者の相手だと、相手の打ちやすいボールを練習中に出してしまう。練習量は多くても、本当に自分のための練習はしていなかった。本番になっても、自分にはその気がなくても相手に打ちやすいボールと場所、コース等のクセがついて、試合に負けると「もう年だから」と勝負師らしからぬ気持ちになってしまうのが不思議であり、自分でも全くくやしさを感じなかった時期でした。
そのころ、私にプレーヤーとして、サイドやる気を起こさせてくれたのは、日本卓球協会の強化対策本部でした。世界選手権代表選手養成のため誕生した強化合宿に、30歳の選手が入れてもらうと思うのが無理な話ですが、もう一度がんばってみようと練習に励みました。その年の大分国体で、神奈川県の磯村選手(専修大出・カットマン)とあたり、カットを打ち抜くことができず敗退。大阪に帰って再び練習にとりくんだ。少し練習しすぎて2週間ばかりカゼと熱でなやまされ、よくなったと思うとすぐ全日本が始まりました。団体戦(大阪代表)が終わって"やれやれ"という気持ちもつかの間、すぐ個人戦。このときに、偶然かどうか過去に私が負けた相手ばかりが私のパートに入っており、このときほど組み合わせの矛盾さを感じたことはありません。特にベスト16入りのときは国体で負けた磯村選手だった。試合する前に強化対策本部集合で某氏が、「他の選手に負けても伊藤だけには負けるな」という話が、私の試合前に耳に入り、一選手のむなしさをこのときほど感じたことはなく、病気気味の体にも反発的な気力が湧き、すごく燃えた状態でした。私のからだの中には、バテレン的な血が流れているのかも知れません。
~持久力なら高齢者でも衰えないことを知った~
あるとき、新聞のスポーツ欄を見ていますと、マラソンの記事で、名前は憶えていませんが、優勝した選手は私と同じ30歳代の人でした。42.195kmも走り続け、非常に体力を必要とするマラソンに30歳代の選手が優勝できるなんて?と思いました。陸上経験のある友だちに聞きますと、「瞬発力は25才ぐらいで駄目になるが、練習さえしていれば、持久力は30歳でも大丈夫ですよ。そのため、陸上でも短距離は年をとると駄目だが、マラソンは比較的高齢者が多いのですよ」と教えてくれました。それで、私は卓球選手として高齢者だから、瞬発力のスマッシュなどでは若い人と同じような力は出せないが、卓球を今以上にオールラウンドにし、強さを発揮するのではなく、うま味を発揮するパーフェクトな卓球をすることによって、自分しかできない卓球をやってみようという決心がつきました。
選手生活を続けている以上、自分の卓球が通用しなくなるでしょうが、「年だから」という理由でやめるのは自分の年に負けたことであり、通用しなくなることは当然であると思う。でも私は、卓球を愛し、好み、いつまでも卓球を続け、今のところ、やめる気は毛頭ありません。また、アマチュアだけに、選手生活をやめなければならないときがきても引退を発表することもありません。
~主婦業、母親業、そして選手の3役で1日がいそがしい~
現在の私は、選手生活の中で一番長くラケットを握っています。選手である以前に、主婦であり母親である。こと卓球に関しては、練習一途に打ち込める学生時代が羨(うらや)ましく思えたことがしばしばあります。サンスターに勤めて、また一段と24時間の中に、いかに卓球生活をおりまぜていくか、会社の理解のもとで、現在はママさん卓球にも出ています。朝9時までにランニング、主婦業、母親業、を終え練習。目のまわる忙しさですが、卓球が生活の一部である私には、さほど苦痛もなくすごしている状態です。ママさんたちと練習する場合は、自分の練習にはならないと、最初は思っていましたが、これは間違いで、大半のママさんは素人です。どうしてもボールが一定しなくて、台の中をあちこち返球されるため、それをオールフォアで、フットワークと同じように相手の打ちやすい場所に確実に返球する練習だと思ってやっています。クロス打ちなどしていますと、急にバック側やミドルに、とくる、その球をできるだけフォアハンドで返すよう心がけて、自分自身の練習をさせてもらっています。それから、選手である以上、技術的にじょうずな選手と練習を必要とするため、クラブに行って男性なり、学生なり、とプレーを中心とした練習を行うことにしています。後輩、また自分より相手が弱い場合、自分なりのハンディを心の中できめてがんばっています。
~毎日がベストコンディションであるように~
よく人に試合前のコンディション作りについて聞かれることがありますが、「一日3食、きまって食事をする人が、一日4食にして力が出ますか?」と答えています。試合前になって、急に練習しても、机の上で覚えられるものならば、いざしらず、卓球はからだで憶えなくてはならないだけに、毎日毎日にフル練習する必要があります。毎日振る練習であれば、毎日がベストコンディションであるだけで、私は試合前だからといって技術のコンディション作りは考えていません。身体的、栄養的には考えていますけど...。毎日と変わらぬ生活を送り、『常に、練習量は自分の方が多いんだ』『自分よりも相手の方が体力的にも苦しいはずだ』と言い聞かせ、考えながらプレーを行っています。
いとうかずこ 大阪・サンスター
'75年全日本社会人チャンピオン
(1975年12月号掲載)
~フットワーク練習に明け暮れた大学時代~
今までの卓球生活をふり返ってみますと、非常に恵まれた卓球生活を経過してきました。これは卓球の基礎を徹底的に指導されたことが大きな力になっています。四国の愛媛津島の山奥で練習していた高校時代は、フォアハンドの強打一本槍でした。正直なところ、そのころはフットワークはどのように動くかも知らない我流でした。もちろんラバーの張り替えも知りませんでした。大阪の大学に入って初めてフットワークの練習をしたが、始めのころは明けても暮れてもフットワークの練習でした。幸い私は高校時代に、自転車通学(往復約32km)で山道を走っていた関係で足腰には自信があり、苦しいフットワークの練習もアゴを出さず、ついて行けたと思います。
大学に入ってからは、一流選手と対戦する機会も多く、からだの小さな私は、フォアハンド一本槍ではどうしても不利な場合が多く、バックショートや、バックハンドが必要となりましたが、フットワークも満足にできないうちからショートやバックハンドを振れば、「フットワークが中途半端になる」と言って、主戦武器のフォアハンドを生かせるフットワークができるまでは、他の練習は禁止されるようなときもありました。現在の私の卓球は、あくまでもオールラウンドプレーを目指していますが、バックハンドやショートは、フォアハンドを生かすための予備武器であり、当時のフットワーク練習がなかったならば、現在まで卓球を続けることはとうていできなかったと思います。バックショートの練習に引き続いて、バックハンドを試合で意識せずに振れるようになったのは、大学も終わりに近い、昭和32年の全日本からです。このときの試合でバックハンドが振れなかったならば優勝することはおろか、ランク入りも難しかったと今でも思っているほどです。
~毎朝ランニングした東洋レーヨンでの寮生活~
大学当時の私は、強くなろうという気持ちは人一倍強かったが、コーチの言う通りのことをこなした、一種のロボットであり、自分から自分自身の卓球を見きわめて積極的に研究するだけの余裕はなかったような気がする。自分である程度考えながら練習に打ちこんだのは、社会人になってからです。当時は、同じ会社(東洋レーヨン)に世界的プレーヤーが多く、会社での練習は常にゲームをとり、いったん負けると次のゲームまで30~40分待たなければなりません。このときほど、練習試合といえども敗者のみじめさを知らされたことはありません。このときは、卓球部の選手全員が寮生活で、私は毎朝、スケートの高見沢選手とランニングを行ったことが、練習量の比較的少なかった時期の体力養成にもなりました。
~再度やる気をおこさせてくれた日卓協の合宿~
昭和35年の全日本を最後に、山泉姓から伊藤姓になり、大阪で再び卓球生活をおくることになり、母校の樟蔭女子大のコーチもかね1日5~6時間の練習が始まりました。練習量の多い毎日で、自分自身、体力的な低下は感じませんでした。昭和39年に子供が誕生してから、主婦であり、母親であり、一時練習もままならぬこともありましたが、根っからの卓球好きなのか、子供をつれて練習場へ。見ているだけでは気がすまず、ついラケットを持ち学生相手の練習をする。このときの経験は今の私に、大きなプラスになっているような気がします。なぜなら、当時毎朝3~4kmのランニングは続けていたものの、30歳代になるとどうしても、20歳代と比較すると体力はわずかではありますが乏しくなり、しかも自分より下の者の相手だと、相手の打ちやすいボールを練習中に出してしまう。練習量は多くても、本当に自分のための練習はしていなかった。本番になっても、自分にはその気がなくても相手に打ちやすいボールと場所、コース等のクセがついて、試合に負けると「もう年だから」と勝負師らしからぬ気持ちになってしまうのが不思議であり、自分でも全くくやしさを感じなかった時期でした。
そのころ、私にプレーヤーとして、サイドやる気を起こさせてくれたのは、日本卓球協会の強化対策本部でした。世界選手権代表選手養成のため誕生した強化合宿に、30歳の選手が入れてもらうと思うのが無理な話ですが、もう一度がんばってみようと練習に励みました。その年の大分国体で、神奈川県の磯村選手(専修大出・カットマン)とあたり、カットを打ち抜くことができず敗退。大阪に帰って再び練習にとりくんだ。少し練習しすぎて2週間ばかりカゼと熱でなやまされ、よくなったと思うとすぐ全日本が始まりました。団体戦(大阪代表)が終わって"やれやれ"という気持ちもつかの間、すぐ個人戦。このときに、偶然かどうか過去に私が負けた相手ばかりが私のパートに入っており、このときほど組み合わせの矛盾さを感じたことはありません。特にベスト16入りのときは国体で負けた磯村選手だった。試合する前に強化対策本部集合で某氏が、「他の選手に負けても伊藤だけには負けるな」という話が、私の試合前に耳に入り、一選手のむなしさをこのときほど感じたことはなく、病気気味の体にも反発的な気力が湧き、すごく燃えた状態でした。私のからだの中には、バテレン的な血が流れているのかも知れません。
~持久力なら高齢者でも衰えないことを知った~
あるとき、新聞のスポーツ欄を見ていますと、マラソンの記事で、名前は憶えていませんが、優勝した選手は私と同じ30歳代の人でした。42.195kmも走り続け、非常に体力を必要とするマラソンに30歳代の選手が優勝できるなんて?と思いました。陸上経験のある友だちに聞きますと、「瞬発力は25才ぐらいで駄目になるが、練習さえしていれば、持久力は30歳でも大丈夫ですよ。そのため、陸上でも短距離は年をとると駄目だが、マラソンは比較的高齢者が多いのですよ」と教えてくれました。それで、私は卓球選手として高齢者だから、瞬発力のスマッシュなどでは若い人と同じような力は出せないが、卓球を今以上にオールラウンドにし、強さを発揮するのではなく、うま味を発揮するパーフェクトな卓球をすることによって、自分しかできない卓球をやってみようという決心がつきました。
選手生活を続けている以上、自分の卓球が通用しなくなるでしょうが、「年だから」という理由でやめるのは自分の年に負けたことであり、通用しなくなることは当然であると思う。でも私は、卓球を愛し、好み、いつまでも卓球を続け、今のところ、やめる気は毛頭ありません。また、アマチュアだけに、選手生活をやめなければならないときがきても引退を発表することもありません。
~主婦業、母親業、そして選手の3役で1日がいそがしい~
現在の私は、選手生活の中で一番長くラケットを握っています。選手である以前に、主婦であり母親である。こと卓球に関しては、練習一途に打ち込める学生時代が羨(うらや)ましく思えたことがしばしばあります。サンスターに勤めて、また一段と24時間の中に、いかに卓球生活をおりまぜていくか、会社の理解のもとで、現在はママさん卓球にも出ています。朝9時までにランニング、主婦業、母親業、を終え練習。目のまわる忙しさですが、卓球が生活の一部である私には、さほど苦痛もなくすごしている状態です。ママさんたちと練習する場合は、自分の練習にはならないと、最初は思っていましたが、これは間違いで、大半のママさんは素人です。どうしてもボールが一定しなくて、台の中をあちこち返球されるため、それをオールフォアで、フットワークと同じように相手の打ちやすい場所に確実に返球する練習だと思ってやっています。クロス打ちなどしていますと、急にバック側やミドルに、とくる、その球をできるだけフォアハンドで返すよう心がけて、自分自身の練習をさせてもらっています。それから、選手である以上、技術的にじょうずな選手と練習を必要とするため、クラブに行って男性なり、学生なり、とプレーを中心とした練習を行うことにしています。後輩、また自分より相手が弱い場合、自分なりのハンディを心の中できめてがんばっています。
~毎日がベストコンディションであるように~
よく人に試合前のコンディション作りについて聞かれることがありますが、「一日3食、きまって食事をする人が、一日4食にして力が出ますか?」と答えています。試合前になって、急に練習しても、机の上で覚えられるものならば、いざしらず、卓球はからだで憶えなくてはならないだけに、毎日毎日にフル練習する必要があります。毎日振る練習であれば、毎日がベストコンディションであるだけで、私は試合前だからといって技術のコンディション作りは考えていません。身体的、栄養的には考えていますけど...。毎日と変わらぬ生活を送り、『常に、練習量は自分の方が多いんだ』『自分よりも相手の方が体力的にも苦しいはずだ』と言い聞かせ、考えながらプレーを行っています。
いとうかずこ 大阪・サンスター
'75年全日本社会人チャンピオン
(1975年12月号掲載)