~姉に引っ張られて~
私が卓球を始めたのは、小学校4年生のときでした。卓球台とマシンを置くといっぱいになる、自宅の応接間で姉(洋子・現大正大2年)とボールを打ち合ったのがキッカケです。練習するたびに、ソファーを出したり、あとかたづけが大変だったのを覚えています。
それから間もなくして、庭に人工芝をしき、テントを張っただけの小さな練習場を作ってもらい、毎日2時間ほど練習するようになりました。練習といっても、サービス、マシン相手のフォア打ち、ショート...程度のものです。それに、その当時は、自分から進んでやったのではありません。どちらかと言えば、姉に引っ張られてやっていた感じでした。
それでも、どうにかサマになってきた頃から、自宅の近くにあるカトリック教会の卓球場で中・高生と練習するようになりました。そして、小学校5年生の秋、初めて公式戦に出場したのです。その試合は、なんと全日本選手権ジュニアの部の京都府予選だったのです。いま思うと、「よくもあつかましく」とおかしくてなりません。それでも、シード選手を破って、3回戦に進んだのですから不思議なものです。
それから1年ほどして、父が卓球場を作りました。それが現在の「宮津卓球研究所」です。練習にも熱が入ったのはいうまでもありません。
当時の練習は、マシン相手に、
①とびつき
②レシーブ
③カット打ち(ネットを少し高くしてのループドライブ)...などです。いまでもそうですが、当時もロングサービスからの攻撃が主でした。
~初の国際試合~
中学2年になり、それまで使っていた裏ソフトから、表ソフトラバー(ゴクウス)に変えてみました。「カット打ちのフォームを直すため」だったのですが、結局、そのまま表ソフトラバーで通すことになりました。
表ソフトラバーに変えてから、成績は急上昇、8月の全国中学校大会で準優勝することができました。"まぐれ"といえるものですが、大きな自信になったのは事実です。12月の全日本選手権大会カデットの部で優勝し、翌年、バーレーンで開かれた第一回アジアジュニア選手権大会に出場することができました。この大会は、初めての国際試合であり、フォアハンドの大切さを教えてくれた思い出に残る大会です。帰国してからは、目標をもって練習するようになりました。
高校に入学してからの1年間は、慣れない合宿や遠征などで本当に大変でした。それだけに学ぶことがたくんさんありました。卓球についてだけでなく、いろんな面で勉強になりました。
高校での目標は、なんといっても、インターハイです。私もインターハイ優勝をめざして練習に取り組みました。が、1年のときは、準々決勝で柳川高校の吉松さんに負けて、ベスト8でした。カットマン対策を残したまま迎えた全日本選手権大会でも、やはりカットマンに敗れたのです。
ところが、何が幸いするかわかりません。「何事も経験」のつもりで出場した、大竹さん(同志社大)と組んだミックスダブルスで運よく優勝することができたのです。この優勝のおかげで、スウェーデンのエーテボリで開かれた第38回世界選手権大会の日本代表に選ばれました。
直接は聞きませんでしたが、代表になる時にかなりの反対意見が出ていたようです。それだけに、「がんばらなければ」という気持ちが強くなり、必死で練習に励みました。
日本代表になってからは、それまで以上に合宿生活が増え、合宿では、中国やヨーロッパの選手を頭において練習に取り組みました。
合宿で最も印象に残っていることは、
①二度振り(ボールを打つ前に、素振りを1回入れる)
②アコーディオン打ち(前陣で2~3本打ち、互いに徐々に下がりながら打ち、後陣で2~3本全力で打ち合う。そしてまた前陣にもどって打つ)
③ラケットを反転して、イボ高を使った練習
...などを、大晦日のよるから午前3時ぐらいまで、下長さん(現青学大)と練習したことです。
~大きな力を得た世界大会~
世界選手権大会は、私に大きな力を与えてくれました。卓球に対する取り組む姿勢だけでなく、精神的にもずいぶん強くなったように思います。それによって、高校2年のインターハイに優勝、全日本選手権のシングルスで決勝まで勝ち進むことができました。
その頃、技術面で最も意識して取り組んだのは、
①打点を落とさない
②振りを速くする
③積極的に攻める
...などです。そのせいか、一時、プレーがあらっぽくなったという声もありました。
そんな中で、高校3年になった4月、名古屋で行われたアジアジュニア選手権大会では、惨敗を喫し、「今年はどうなるのか」と、とても心配でした。そこで、ラケットを2年前に使っていた合板ラケットに変え、フォームを変えて気分転換を図りました。そして、インターハイまでの数カ月間は、フォアハンドの強化に努めました。多球練習で、バッククロスへのスマッシュ(サイドを切って流れていくボール)を使った応用的な攻撃です。
その結果、2年連続優勝することができました。ここで忘れていけないのが姉の存在です。姉は大学に入ってからも、インターハイ前には必ず帰ってきて、私の練習相手をしてくれました。ありがたく思っています。
~現在の重点練習内容~
現在、重点をおいている練習内容は、
①フォアハンドの強化(水平打法と、威力+安定性)
②バックハンド強化(サービス+3球目、大きくフォアに動かされたあとのつなぎ)
③広範囲のフットワーク(フォアへのとびつき+その後の攻撃)
体力面の強化としては、
①サーキットトレーニング(腕立て、背筋、腹筋、バーピーなど15種類を、両手に1kgまたは、1.5kgの鉄アレイを持って)
②腕の腕力強化(両手に5kgの鉄アレイをもって)
体力トレーニングは、毎日午後6時から11時ぐらいまでの練習が終わってから行っています。いくらか腕力もついてきたように感じますが、まだ、それが卓球に生かされていないのが残念です。
~今後の目標と課題~
私のめざす卓球は、前陣速攻です。が、まだ、韓国の表ソフト選手のような幅のあるプレーができません。
今後の目標は、まず全日本で優勝することですが、もっともっと強くなって、世界で通用する選手になることを一番の目標にしています。
その目標を達成させるには、
①サービス、レシーブの強化(変化を見分ける目と、ラケットの角度調整を素早くする)
②サービスの種類を増やし、それに合った3球目攻撃ができること
③フットワークの進化(前後左右の大小の動き)
④連続攻撃とブロックによるラリー戦に強くなること
...などなど、書ききれないほどの課題もあります。
ともかく、あせってもどうしようもありません。上記にあげたようなたくさんの課題を一つ一つ、少しずつ改善していき、安定性のある速攻プレーができるようになることを考えて練習しています。そして、一日でも早く私のめざす卓球が完成できるよう、また、日本の代表として活躍できるよう、これから全力を尽くし、精いっぱい努力していきたいと思っています。
いしだきよみ
宮津高3年
全日本2位 '85~'86年高校No.1
(1987年1月号掲載)
私が卓球を始めたのは、小学校4年生のときでした。卓球台とマシンを置くといっぱいになる、自宅の応接間で姉(洋子・現大正大2年)とボールを打ち合ったのがキッカケです。練習するたびに、ソファーを出したり、あとかたづけが大変だったのを覚えています。
それから間もなくして、庭に人工芝をしき、テントを張っただけの小さな練習場を作ってもらい、毎日2時間ほど練習するようになりました。練習といっても、サービス、マシン相手のフォア打ち、ショート...程度のものです。それに、その当時は、自分から進んでやったのではありません。どちらかと言えば、姉に引っ張られてやっていた感じでした。
それでも、どうにかサマになってきた頃から、自宅の近くにあるカトリック教会の卓球場で中・高生と練習するようになりました。そして、小学校5年生の秋、初めて公式戦に出場したのです。その試合は、なんと全日本選手権ジュニアの部の京都府予選だったのです。いま思うと、「よくもあつかましく」とおかしくてなりません。それでも、シード選手を破って、3回戦に進んだのですから不思議なものです。
それから1年ほどして、父が卓球場を作りました。それが現在の「宮津卓球研究所」です。練習にも熱が入ったのはいうまでもありません。
当時の練習は、マシン相手に、
①とびつき
②レシーブ
③カット打ち(ネットを少し高くしてのループドライブ)...などです。いまでもそうですが、当時もロングサービスからの攻撃が主でした。
~初の国際試合~
中学2年になり、それまで使っていた裏ソフトから、表ソフトラバー(ゴクウス)に変えてみました。「カット打ちのフォームを直すため」だったのですが、結局、そのまま表ソフトラバーで通すことになりました。
表ソフトラバーに変えてから、成績は急上昇、8月の全国中学校大会で準優勝することができました。"まぐれ"といえるものですが、大きな自信になったのは事実です。12月の全日本選手権大会カデットの部で優勝し、翌年、バーレーンで開かれた第一回アジアジュニア選手権大会に出場することができました。この大会は、初めての国際試合であり、フォアハンドの大切さを教えてくれた思い出に残る大会です。帰国してからは、目標をもって練習するようになりました。
高校に入学してからの1年間は、慣れない合宿や遠征などで本当に大変でした。それだけに学ぶことがたくんさんありました。卓球についてだけでなく、いろんな面で勉強になりました。
高校での目標は、なんといっても、インターハイです。私もインターハイ優勝をめざして練習に取り組みました。が、1年のときは、準々決勝で柳川高校の吉松さんに負けて、ベスト8でした。カットマン対策を残したまま迎えた全日本選手権大会でも、やはりカットマンに敗れたのです。
ところが、何が幸いするかわかりません。「何事も経験」のつもりで出場した、大竹さん(同志社大)と組んだミックスダブルスで運よく優勝することができたのです。この優勝のおかげで、スウェーデンのエーテボリで開かれた第38回世界選手権大会の日本代表に選ばれました。
直接は聞きませんでしたが、代表になる時にかなりの反対意見が出ていたようです。それだけに、「がんばらなければ」という気持ちが強くなり、必死で練習に励みました。
日本代表になってからは、それまで以上に合宿生活が増え、合宿では、中国やヨーロッパの選手を頭において練習に取り組みました。
合宿で最も印象に残っていることは、
①二度振り(ボールを打つ前に、素振りを1回入れる)
②アコーディオン打ち(前陣で2~3本打ち、互いに徐々に下がりながら打ち、後陣で2~3本全力で打ち合う。そしてまた前陣にもどって打つ)
③ラケットを反転して、イボ高を使った練習
...などを、大晦日のよるから午前3時ぐらいまで、下長さん(現青学大)と練習したことです。
~大きな力を得た世界大会~
世界選手権大会は、私に大きな力を与えてくれました。卓球に対する取り組む姿勢だけでなく、精神的にもずいぶん強くなったように思います。それによって、高校2年のインターハイに優勝、全日本選手権のシングルスで決勝まで勝ち進むことができました。
その頃、技術面で最も意識して取り組んだのは、
①打点を落とさない
②振りを速くする
③積極的に攻める
...などです。そのせいか、一時、プレーがあらっぽくなったという声もありました。
そんな中で、高校3年になった4月、名古屋で行われたアジアジュニア選手権大会では、惨敗を喫し、「今年はどうなるのか」と、とても心配でした。そこで、ラケットを2年前に使っていた合板ラケットに変え、フォームを変えて気分転換を図りました。そして、インターハイまでの数カ月間は、フォアハンドの強化に努めました。多球練習で、バッククロスへのスマッシュ(サイドを切って流れていくボール)を使った応用的な攻撃です。
その結果、2年連続優勝することができました。ここで忘れていけないのが姉の存在です。姉は大学に入ってからも、インターハイ前には必ず帰ってきて、私の練習相手をしてくれました。ありがたく思っています。
~現在の重点練習内容~
現在、重点をおいている練習内容は、
①フォアハンドの強化(水平打法と、威力+安定性)
②バックハンド強化(サービス+3球目、大きくフォアに動かされたあとのつなぎ)
③広範囲のフットワーク(フォアへのとびつき+その後の攻撃)
体力面の強化としては、
①サーキットトレーニング(腕立て、背筋、腹筋、バーピーなど15種類を、両手に1kgまたは、1.5kgの鉄アレイを持って)
②腕の腕力強化(両手に5kgの鉄アレイをもって)
体力トレーニングは、毎日午後6時から11時ぐらいまでの練習が終わってから行っています。いくらか腕力もついてきたように感じますが、まだ、それが卓球に生かされていないのが残念です。
~今後の目標と課題~
私のめざす卓球は、前陣速攻です。が、まだ、韓国の表ソフト選手のような幅のあるプレーができません。
今後の目標は、まず全日本で優勝することですが、もっともっと強くなって、世界で通用する選手になることを一番の目標にしています。
その目標を達成させるには、
①サービス、レシーブの強化(変化を見分ける目と、ラケットの角度調整を素早くする)
②サービスの種類を増やし、それに合った3球目攻撃ができること
③フットワークの進化(前後左右の大小の動き)
④連続攻撃とブロックによるラリー戦に強くなること
...などなど、書ききれないほどの課題もあります。
ともかく、あせってもどうしようもありません。上記にあげたようなたくさんの課題を一つ一つ、少しずつ改善していき、安定性のある速攻プレーができるようになることを考えて練習しています。そして、一日でも早く私のめざす卓球が完成できるよう、また、日本の代表として活躍できるよう、これから全力を尽くし、精いっぱい努力していきたいと思っています。
いしだきよみ
宮津高3年
全日本2位 '85~'86年高校No.1
(1987年1月号掲載)