「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年9月号を再編したものです
選手をやめる覚悟
伊藤は入学するときに、
「2年遅れて大学に入る俺は、他の人が4年かかって挙げる成果を2年で挙げるつもりでやるんだ」と決意していた。その伊藤にとって2年生の東日本学生選手権大会は、一つの節目としての意味を持っていた。もしベスト16に入れなかったら、選手としてこれから大きく伸びる可能性は少ない、マネージャーになって部に貢献しようと覚悟したのだ。そして、自分に逃げ道を許してはならないと、このことをしっかりと卓球日誌に書き込んだ。
伊藤の成功を願い、苦労して学費を工面してくれている郷里の家族に報いるためにも、何とかして結果を出したかった。そのためには試合前のオフ期間をうまく使って、効果的な練習をしなければならない。どうしたらランキング入りできるのか。伊藤は練習方法を必死に考えた。
夏休みの暑い期間にあれもこれもと欲張っても、うまくいかないに決まっている。そこで伊藤は、練習のポイントを4つに絞ることにした。得意なサービス技術を高めること、3球目エースボールの威力を増すこと、フォア前レシーブを強化すること、そして確実なブロック力をつけることである。休み明けに部の練習が再開されてからは、内容をハードなものに切り替え、体調管理を万全にし、気合十分で試合を迎えた。
東日本学生選手権大会の本番が来た。最初のうちは「もし負けたら」という懸念が拭い切れず、体が思うように動かせなかったが、ランキング入りを決めたとたん、足かせが外れたように気持ちが楽になった。
準決勝では前年度全日本チャンピオンの長谷川(愛知工業大)に初めて勝った。1-2から盛り返しての大接戦で、会心のプレーだった。決勝では鍵本(早稲田大)に逆転されて敗れたが、負ければ選手をやめるという一大決心をもって臨んだ伊藤にしてみれば、東日本学生第2位は十分に納得できる結果だった。
その後の大会でも伊藤は好調で、全日本学生選手権大会では3位に入り、全日本選手権大会では男子シングルスでランキング10位に、混合ダブルスで3位に入賞した。この年から始まった全日本選手権大会団体の部には、木村興治(早稲田大OB)、三木圭一(中央大OB)と「強化対策本部A」というチームを組んで出場し、優勝した。
全日本選手権大会の表彰台の最上段に上がったのはこれが初めてで、
「2位や3位ではこの爽快感は味わえない。やっぱり、一番高いところに上がってこそ本物だ」と実感した。
凱旋団を迎えに
この全日本選手権大会は世界選手権大会の代表選考の意味も持っており、全日本選手権大会2連覇の長谷川、ベスト4入賞の河野、鍵本らは当然のように選ばれたが、伊藤は枠から漏れた。しかし、これにはあまりショックを受けなかった。むしろ、専大でともに練習に励んできた河野、同じ学生である鍵本や長谷川に、世界の大舞台で活躍してほしいと応援する気持ちの方が大きかった。
スウェーデンのストックホルムで開催されたこの年の世界選手権大会には、文化大革命のために強豪中国チームが出場しなかった。日本はライバルの不出場で方向を見失いかけたが、荻村監督の指示ですぐに目標を「全種目制覇」に切り替え、1日に8時間から12時間もの練習に励んだ。
大会本番、日本はその強化合宿で力を付けた若手の活躍もあり、破竹の勢いで勝ち進んだ。男子シングルスでは長谷川が優勝、河野が2位になり、他種目でも女子シングルス、女子ダブルス、混合ダブルス、男女団体で世界の頂点に立った。実に7種目中6種目で日本勢が1位になったのである。中でも専大の選手は大活躍だった。
日本で知らせを聞いた仲間は、みな飛び上がって喜んだ。むろん伊藤も例外ではなかった。朝から走り回って、日本チームの快挙を報じる新聞を買い集めた。
「やったな、あいつら。すごいぞ」
同じ釜(かま)の飯を食った仲間たちの成功は、自分のことのようにうれしかった。
選手たちが凱旋帰国した4月29日、伊藤たちは羽田空港に集まった。各代表の大学のOBやOGも大勢駆け付け、お祝いの横断幕が何枚も掲げられた。伊藤は目立とうと、先頭で部旗を担いだ。準備は万端である。お祝いムードでいっぱいの仲間とともに、伊藤は選手たちがゲートに現れるのを、今か今かと待ちうけた。
第二の誕生日
先頭を切って姿を見せたのは、長谷川だった。彼の顔を見た、そのときである。伊藤の体を、何か電流なようなものが走った。頭をガーンと強く殴られたような衝撃を感じ、長谷川意外の選手の顔が目に入らなくなった。周りの歓声やざわつきも、まったく聞こえなくなった。
新・世界チャンピオン、長谷川信彦の表情は、世界の頂点に立った者としての輝きに満ちていた。まるで、世界が自分を中心に動いていると誇示しているかのように、伊藤には感じられた。自信にあふれて仲間の歓迎に応える長谷川の顔が、目に焼き付いて離れなかった。
長谷川が世界チャンピオンで河野は世界2位、そして俺はただ出迎えに来るだけ......。そんなばかなことがあっていいのか。
俺は今まで何を浮かれていたんだろうか。
「宮城(きゅうじょう)の北 枢地(すうち)に立ちて
礎固(いしずえかた)し 我等が大学
質実(しつじつ)は姿 真摯(しんし)は心......」
ゲートの前では、専大の校歌の斉唱が始まっていた。それぞれの選手の大学の校歌を歌って戦績をたたえるのが、世界選手権大会から帰国した選手団への慣例になっていた。いつもなら率先して大声を張り上げる伊藤だったが、このときばかりは歌どころではなかった。
歓迎会が終わっても、選手や他の仲間たちはまだ歓談を続けていた。しかし、伊藤はさっきからの異常な興奮で話をするどころではなく、みんなの輪からそっと離れた。そして、わき目も振らずに電車に乗り、一人専大の体育寮に向かった。
寮に着くと、伊藤はボールをいっぱい入れたかごを抱えて、道場に駆け上がった。当然のことながら誰もおらず、中はひっそりとしていた。ついさっきまでお祝いムードの中にいただけに、伊藤の心はその静けさに痛いほど引き絞られた。
伊藤はただ一人、ボールを上げてスマッシュを打ち始めた。渾身(こんしん)の力を込めて、何球も何球もたたきつけた。
長谷川の顔を見たか。自分が世界の中心にいると言わんばかりの、あの顔を。
俺は、長谷川のように世界のトップに立つことを、真剣に目指して練習に臨んだことがあったか。
長谷川にも河野にも、今はまだ分が悪いが、決して追いつけないことはない。いや、追い越すことだってきっと可能なはずだ。
長谷川は世界1位で河野は2位。でも、俺は二人に勝ったことがある。
東日本学生選手権大会で2位になったくらいで母さんに恩返しができたと思うなんて、とんでもない。俺は母さんの半分も苦労していない。母さん、悪かった!
俺は、今日この日で生まれ変わるんだ。今までの甘い自分と決別して、二度とこんな屈辱を味わわなくてもいいようにするんだ。
4月29日を、伊藤繁雄の第二の誕生日にしよう。
浮かんで来るさまざまな思いを、すべて声に出してボールにぶつけた。疲れて腕が上がらなくなると鏡の前に立ち、自分の姿をにらみつけて、再びやる気を引き出した。道場に何時間いたのかは分からない。恐らく2時間以上は打ち続けていただろう。やっと我に返ったとき、伊藤は自分がこれまでとはまったくの別人のようになっているのを知った。もやもやとした鬱憤(うっぷん)は晴れ、心は澄み切っていた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。