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世界一への道 伊藤繁雄 
球史を革新したドライブ強打王 13

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
 1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=小谷早知 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年12月号を再編したものです


決勝前夜

 伊藤と同じく男子シングルス準々決勝を勝ち抜いたのは、日本の笠井と田阪、それに西ドイツのシェラーだった。伊藤の次の相手は、愛工大のカット型・笠井だった。
 河野と組んだ男子ダブルス、小和田と組んだ混合ダブルスでも、伊藤はベスト4入りを果たしていた。
 その晩、伊藤は宿舎の部屋に戻って落ち着いたものの、なかなか寝付けなかった。緊張しているというより、もっと高次の異常興奮状態にあったと言った方がよさそうである。
 いよいよ、自分の力のすべてを発揮するときが来たのだ。
「世界選手権大会で優勝したい」
 2年前の4月29日、ストックホルム大会で優勝した長谷川たち一行を羽田空港で迎えたあの『第二の誕生日』以来抱き続けてきた最高の目標に、明日挑むことができるのである。ついに、燦然(さんぜん)と輝く星のすぐそばまでたどり着いたのだ。
「さあ、今こそ力の限り手を伸ばして、しっかりとこの手のひらにつかもう」
 伊藤は、大きく広がる可能性を前に、幸福な気持ちに溢れていた。
 ところが、困ったことに気づいた。眠れないのだ。
 本番で身体的、精神的なプレッシャーに打ち勝つためには、できるだけ睡眠を取って心身を休めておかなければならない。それなのに、何としてもチャンピオンの栄冠を勝ち取りたいと思うと体中が熱くなり、どうしても目がさえてしまう。
 二重の思いに苦しみながら寝返りを繰り返すうち、伊藤の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。専大の先輩でかつて世界を2度制した、松崎キミ代さんのアドバイスである。
「大事な大会の前夜というのは、眠れなくて当たり前です。でもね、1晩くらい寝られなかったくらいで試合ができないなんてことは、絶対にありません。横になって目をつぶるだけでいいんですよ。そういうときの方が、かえっていい試合ができるものです」
 この言葉を何度も反芻(はんすう)しながら、伊藤は、プレッシャーをプラス方向の自己暗示へと変えていった。
「そうだ、眠れないのは勝利の前兆なんだ。明日はきっと、万全の体勢で向かっていけるぞ」
 高ぶっていた気持ちはすうっと落ち着き、伊藤は泥のように眠りこけた。

その日

 翌朝は、すっきりと目覚めることができた。伊藤は一人でそっと部屋を抜け出して、ランニングに出かけた。全身に精気がみなぎっているのが分かった。
 男子シングルス、男子ダブルス、混合ダブルスの3種目の準決勝と決勝を、すべてゲームオールで戦ったとしたら30ゲームである。
「もう体がどうなってもいい。今日1日に懸けよう」
 伊藤はこう自分に言い聞かせた。
 ダブルス2種目は準決勝で敗れたが、男子シングルスの準決勝では、笠井に3-0で勝った。決勝の相手は、田阪を3-2で倒したカットのシェラーである。伊藤は彼と団体戦で対戦し、ゲームオールで負けていた。
 このシェラーのカットは、日本選手の持っていたカットのイメージとかけ離れていた。フォロースルーが極端に短く、手首でラケット角度を合わせるだけでカットしているように見えるのに、飛んでくるカットがズシンッと腕に響くくらい重いのだ。腕の筋力と下半身のバネが、よほど強いのだろう。
 その上シェラーは、100メートルを11秒台前半で走ると言われており、守備範囲の広さも群を抜いていた。
 そうかと思うと、カットのバックスイングで腰の辺りまで切り下ろすように見せかけながら、いきなり手首を返してフォアハンド攻撃を仕掛けてきたりもする。てっきりカットが来ると予想しているところに、突然ライナー性のスマッシュが襲ってくるために、逆を突かれると簡単に抜かれてしまうおそれがある。伊藤は普段、対カット戦を得意としていながら、団体戦の決勝ではシェラーに煮え湯を飲まされていた。このときの反省から、大津監督は伊藤に、「粘っていけ。浮いた甘いボールだけを強ドライブやスマッシュで狙うんだ」とアドバイスした。伊藤は控え室に入った。

シェラー。西ドイツ選手権大会8回優勝
1967年、1965年世界卓球選手権大会は男子シングルス3位


いのち知らずにゃ敵がない

 とうとう決勝の時が来た。このような時は、一人静かに座り、絶対に勝てると自己暗示をかけて気持ちを高めていくのが、伊藤の常である。しかし、この日は違った。ぴりぴりとした緊張状態にあるはずの伊藤の口から漏れてきたのは、何と演歌だったのである。

  君は誰だと 訊かれたときに
  俺は男と 答えたい
  いつもにっこり 笑って死ねる
  いのち知らずにゃ 敵がない
  いのち知らずにゃ 敵がない

  下にやさしく 上にはつよく
  腹はたてるな 気はながく
  おれの出番は 一生一度
  そうだその意気 そのがまん
  そうだその意気 そのがまん

 水前寺清子の「いのち知らずにゃ敵がない」だった。伊藤は目を閉じ、下腹に気を入れて歌い続けた。なぜこのような重要なときに歌が出てきたのか、伊藤自身にも分からなかった。しかし、日本選手の最後の砦(とりで)となった孤独感は、相当なものだったはずである。これを払拭(ふっしょく)するためには、歌で丹田(たんでん)に意識を集中させるしかなかったのかもしれない。事実、「そうだ、その意気、そのがまん」と口に出しているうちに、わずかに心の隅に残っていた不安は完全に消え去り、不思議なほどリラックスすることができたという。
 試合に勝つためには、勝利への執念を持ち続け、闘志を高めることが不可欠である。しかし、勝利欲だけを先行させてしまっては、かえって体をこわばらせ、不満足な結果を招くことにもなりかねない。野望を抱きながらも、心の奥底は冷静な状態に保ち、体はリラックスさせるという、相反する2つの要素が同時に大切なのだ。精神を緊張させつつ弛緩(しかん)させる、この微妙なバランスをうまく保ってこそ、大舞台で実力を発揮することができるのである。
「いのち知らず」「出番は一生一度」「がまん」といった歌詞の一つ一つは、伊藤の心をそのまま代弁していたのであろう。(次回へ続く


Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。

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