昨年の9月に行われた中国運動大会、男子シングルスの準々決勝で観客席を埋め尽くした熱烈な女性ファンたちの声援を背に戦い、後輩の周愷に敗れたその男は、あごの先からしたたり落ちる汗を拭うこともなく、うつむき加減でコートを後にした。決して絶好調とは言い難い出来ではあったが、得意のバック対バックからの展開でも若手に押され、切れのある回り込みから鋭いフォアハンドを振る光景も見られなくなったかつての王者の後ろ姿に、「ただの敗北」以上のものを感じたのは確かだ。
昨年11月に行われたワールドツアー・ドイツオープンを最後に、国際大会の舞台から張継科は姿を消していた。ドイツオープンではアポロニアに1回戦で敗れるなど、外国選手に敗れることも多くなってきたかつての世界チャンピオンが選手生活に幕を降ろす日はそう遠くはないのではないか。そんな声は決して少なくなかった。
だが、今年、旧正月の明けた2月のある日、バタフライの担当者に1通のメッセージが届く。
「練習を再開したいので、用具調整に来ていただけませんか?」
それは、卓球の普及活動やイベント出演、タレント活動(!)に多忙を極め、3カ月もの間ラケットを握っていなかったという張継科からのものだった。
そして翌月、バタフライのスタッフは北京のナショナルトレーニングセンターを訪れた。練習を再開してから2週間、思い切り汗を流すその姿に迷いは見えない。
「今は選手としてより長くプレーしたいと考えています。そして、東京オリンピックに出たいんです」
これからの目標を尋ねると張継科はそう短く答えた。そして、こうもつけ加えた。
「今の若手と馬龍、樊振東、許昕の間には、まだまだ大きな差があります。彼らはまだ中国代表を任せられるほどは成長していません。経験でも実力でも、自分にはまだチャンスがあると思っています」
中途半端な覚悟でそんな言葉を口にする男ではない。そして、彼の言う「チャンス」が単に中国代表に復帰することだけではないことは、その強い眼差しからも明らかだ。もちろん、それは「再び世界の頂点に立つチャンス」を意味している。その言葉の裏側には、大きな壁を越えてさらに強くなってほしいという後輩たちへの期待と、何よりも、世界チャンピオンとして中国を支えてきた男の強い自負が感じられた。
その張継科が、プレーを続ける上で重視しているものの1つが用具だ。今回の用具調整は、休養を経て打球感覚が変わっていることと、ボール素材の変更に対応するためのものだという。
「選手によってプレースタイルやボールの質は異なるので、用具に求めることもそれぞれに違うと思いますが、僕は回転とスピードを重視しています。一番大事にしているのは、ラケットにおいても、ラバーにおいても回転です。
今使っているラケットは、使い始めてから十数年経っているので、性能を知り尽くしているという自負があります。特殊素材にアリレートカーボンを使っているので、回転もスピードも十分な質の高いボールを打つことができます」
これまで張継科の妥協なき追究にバタフライは全力で応えてきた。そして、それはこれからも変わることはないだろう。
張継科は3度目のオリンピック出場という大きな目標を胸に、そして、「その性能を知り尽くしている」というラケットを手に、世界の舞台に戻って来た。
同世代の馬龍と許昕が今も中国代表として第一線で活躍していることを考えれば、もちろん不可能な話ではない。だが、それは険しい道のりになることは間違いないだろう。
しかし、その険しい道を涼しい顔で歩いていく1人の男の姿が意外にもすんなりと想像できはしないだろうか。
5月22日から始まった香港オープンを皮切りに、約半年ぶりの国際大会に中国オープン、ジャパンオープンと続けてエントリーしている。第二章の幕が上がった。
(取材=卓レポ編集部/文=佐藤孝弘)