上田仁が競技生活を引退し、戸上隼輔(井村屋グループ)のプライベートコーチ(専属コーチ)として新たなスタートを切ることを発表した。
2023年夏、新天地を求めて家族でドイツへ移住すると、所属するケーニヒスホーフェンをチーム初のプレーオフへ導くなど順風な競技生活を送っていたように見えた上田だが、なぜきっぱりラケットを置き、戸上のコーチを務めるに至ったのか。その経緯や思いを卓球レポートに語ってくれた。

戸上の可能性に引かれ
コーチを志願して引退を決意
--引退を決めたいきさつについてお聞かせください。
上田仁(以下、上田) 以前に行っていただいたインタビューでも話したと思いますが、ドイツへの移住は2年から3年が一応の目安でした。今年が2年目であと1年現役を続けるのか、それとも日本へ戻るのかについては家族とも話していました。
日本でTリーグに所属しているときは年間多くても20試合程度でしたが、ドイツでは1年間で100試合くらいしたんですよね。プロ選手として数多く試合ができることは幸せで、すごく充実感に満ちていましたが、そうしたドイツでの生活を続ける中で、選手であり続けることよりも、すごくいろいろなことを考えるようになりました。自分のこれからのこともそうですが、やっぱり家族、特に子供のことを考えたときにどうするべきかと。
そうしたタイミングで、オクセンハオゼンに所属している戸上から連絡をもらったんです。昨年の10月半ばでした。
--戸上選手からはどのような連絡だったのでしょうか。
上田 「チームメートが試合で出払ってしまって練習相手がいないので練習をお願いできませんか?」という連絡でした。戸上とは試合で対戦したほかは、ほとんど接点がありませんでしたが、困っているならとオクセンハオゼンへ1週間ほど行って二人で練習をしました。そこで、練習はもちろんですが、今の世界や日本の現状など、いろいろな話をしました。
その中で、環境というか仕組みについても話をしました。今は男子のトップ10の選手は大なり小なりみんな自分のチームを持っています。日本の女子はそのようになっているけど、男子で日本人2番手としてパリ五輪に出た戸上が専任のコーチやトレーナーがいないのは問題だし、なんとかしたいよねと。また、戸上がなんでオフチャロフ(ドイツ)やモーレゴード(スウェーデン)に勝てないのか、その理由がよく分からないということも話しました。僕なりに戸上の戦い方を見ていて思うところをいろいろアドバイスもしました。
--その出会いがきっかけで引退と戸上選手のコーチにつながっていくのでしょうか?
上田 結果的にそうですが、その時は単に練習と会話をしただけで、コーチの話は一言も出ませんでした。戸上からすれば僕は現役でプレーしていますから、僕がコーチという構図は全く思っていなかったと思います。もちろん、僕もそうです。
ただ、僕の中では、戸上と接して彼にすごく引かれるところがありました。帰宅してからも何か戸上の力になれないかとずっと考えていました。
--戸上選手のどのあたりに引かれたのでしょうか?
上田 まず、ストイックなところです。日本にいても十分やっていけるのに、あの若さで退路を断ってドイツで厳しい環境に身を置いて頑張っている。自分の同じ時期を思えば、戸上の選択は本当にすごいことだなと思います。
そして、ひたむきさですね。正直に言えば、ボールタッチなどのセンスでいったら、張本智和(智和企画)や篠塚大登(愛知工業大)、松島輝空(木下グループ)らの方が戸上より上回っていると思います。しかし、戸上にはそれを補う、練習にひたむきに頑張る能力があります。オクセンハオゼンで彼と練習を共にして、率直にまだまだ伸びしろがあると実感しました。
加えて、人柄にもひかれました。
比べるつもりはないんですけど、話し込んでみると僕と似ていて気持ちが優しいんですよね。普段の生活は優しくても勝負では非情になれる人が勝つのが、僕が経験してきたアスリートの世界。僕は、ここぞの場面で非情になれなくて、いいところまで行くけど大事なところで勝てないのが自分のこれまでの卓球人生で、その優しさが自分の良さというか持ち味でもあると思っていました。
しかし、戸上と接すると、彼は自分と似て根はすごく優しいのですが、それを卓球に持ち込んではいけないと自覚しているから、大好きなプロレスを参考にしたりしてわざと強い自分をつくっているんだなと分かります。言い方は悪いですが、自己中心的に振る舞える人がチャンピオン気質だと思っていたけど、自分と似た戸上のような気質の選手でも全日本のタイトルを取った。戸上と話していて、「優しい選手は勝てない」というのは自分の思い込みというか、自分がそれを言い訳に逃げていたんだなと気づかされて衝撃を受けたんですよね。そうしたことも、戸上の力になりたいと思った理由です。
--具体的には、どのようなアプローチで戸上選手のコーチを引き受けたのでしょうか?上田選手からですか? それとも戸上選手からですか?
上田 僕からです。WTTチャンピオンズ モンペリエが終わってすぐに戸上に電話しました。「めっちゃおかしなこと言うけど聞いてくれ。聞いた上で断ってくれて全然構わないから。ドイツに来て、思ったことを心の内に置いておくとすごく後悔することを学んだから、思いだけ伝えさせてくれ。俺、戸上のコーチになりたい。力になりたい」って。もう告白ですよね(笑)
--それはまた熱いエピソードですね。
上田 「俺にはもちろんコーチの実績はない。ただ、日本代表としてやブンデスリーガで各国のトップ選手たちと試合をしてきた経験やデータがあり、それは戸上にとって役立つはず。お互いにとって大きな賭けだけど、もし引き受けてくれたら、選手を続けながら片手間ではできないし、誠意というか覚悟を見せたいから自分は選手をきっぱり引退する」。そう言って戸上を口説きました。
--戸上選手の反応はどうでしたか?
上田 「とてもうれしいです。ありがたい話です」と言ってその日は電話を切りましたが、翌朝すぐに電話がかかってきて、「上田さんがそれほど強い気持ちで僕を見てくれるなら、自分は頑張れそうです。ぜひお願いします」と即決でした。その答えを聞いて、迷わず引退を決めました。

戸上の指導者ではなく
伴走者として共に走りたい
--思いが実ってよかったですが、それにしても引退とは思い切りましたね。ブンデスリーガでも結果を残し、充実したキャリアを続けていたと思います。
上田 僕はもともと、コーチなどで誰かの力になりたい気持ちをずっと持っていました。でも、日本にいるときは、おそらくですが、自分の選手としての充実感が低かったので、そこへ(指導者の道へ)行こうという勇気が持てなかった。だから引退をする決断が怖かったけど、ドイツに来てある程度結果を残して選手としての充実感を得たことで、すっぱり引退を決めることができたのだと思います。妻(充恵)の分析ですけど(笑)。
ドイツに来て「現役生活をどう長く続けるか」を自分の大きなテーマとして掲げていたし、同じチームに10歳上のシュテーガー(ドイツ)がいて、彼と一緒に過ごしていく中で選手を長く続けるヒントを自分の中でつかんでもいました。自分の中でも現役を続ける気持ちは当然ありましたが、現役生活と戸上のコーチとを天秤(てんびん)にかけたときに、「戸上のコーチをしたい」と素直に思えたのが全てですね。
--ご家族の反応はいかがですか?
上田 100パーセント背中を押してくれました。オクセンハオゼンで戸上との練習を終えて帰宅したとき、「なんか戸上の力になれないかなあ。戸上のコーチをしたいと思っちゃってる自分がいるんだよね」とぼそっとつぶやいたんです。それを聞いた妻が「それ、本心だよ。初めて自分でやりたいことを見つけたんじゃない?」とすごく言ってくれて。それで、自分が進むべき道に気づきました。
こうした心境の変化は、ドイツに来て満足の行く選手生活を送ったからこそだと思います。
--チームや周囲も上田選手の引退を惜しむ声が多かったと思います。
上田 ありがたいことに、そうでしたね。親しい人には打ち明けましたが、「引退でいいの? まだ全然できるでしょう?」とみんなに言っていただきました。
チームにも話して了解をいただいています。ドイツは、自分の持ち場さえしっかりしてくれたらほかは干渉しない気風があるので、そこはありがたいですね。
チームは現在、プレーオフ進出圏内にいるので、仮に勝ち進んだら決勝が6月なので、それを終えて本格的に戸上のプライベートコーチが始まります。それまでは、チームの勝利に貢献できるようしっかり頑張りたいと思います。
自分で言うのもおかしな話ですが、今、すごくプレーの状態が良いんですよ。頭が整理されて、気持ちも落ち着いているので、試合をしていて「自分は強いな、全然できるな」と思う瞬間がいっぱいあるんです。だから、どうせなら「一番強いときに引退しよう!」と思って頑張っています(笑)。ちょっとおかしな考えですが、そういうのも悪くないなって。
--上田選手の実績や経験からしたら、ナショナルチームを筆頭に日本の指導者という選択肢もあったと思いますが?
上田 もちろんありましたし、仮にそういうオファーが来たら考えたと思います。ですが、ドイツに来て、目的を見失うことを1番避けたいと思っていました。その明確な目的が、「戸上の力になりたい」ことだったので、それを失いたくなかったし、迷いはありませんでした。
仮にナショナルチームのコーチになったとしたら、戸上だけを見るわけにはいかず、全体を見なくてはなりません。日本の女子の選手たちがそうですが、専属のコーチやトレーナーをつけ、個人に特化した強化の方がやはり結果が出ています。なので、戸上に特化する強化スタイルにチャレンジする価値はあるんじゃないかと思います。それが、将来的には日本全体の強化に貢献できるのだとしたら、とてもやりがいがありますね。
--引退に至った経緯と戸上選手への思いがとても伝わりました。上田選手はコーチ未経験だと思いますが、今後、戸上選手をどう指導していきたいですか?
上田 おっしゃる通り、僕はコーチ経験はゼロだし、戸上ほどの実績もありませんが、戸上より長く卓球選手を続けているので、それをもとに伝えられることはあると思っています。
具体的には、戸上の場合、技術力は伸びしろがあるし、知らないことがいっぱいあるなと感じています。攻撃力は世界でもトップですが、それをどう生かしていくかを、戸上の意見を尊重しながら一緒につくり上げていきたいですね。
また、コーチとしては現役を終えた直後の1番ホットな状態なので、直接ボールを打ち合って伝えられることもあるでしょうし、自分が蓄えた対戦相手のデータもしっかり伝えたいと思います。
それと、戸上をコーチする上で、もう一つ大切にしたいと思っていることがあります。
--何でしょうか?
上田 自分も経験があるのですが、たった一人で目標に向かって走り続けるって、すごくつらいんです。トップ選手たちがなぜプライベートコーチをつけるかというと、それは技術だけじゃないと思うんですよね。プライベートコーチには、トップ選手にしか分からない苦悩や外に吐き出せないその時々の感情に寄り添う役目があると思いますし、それらを共有できる人がそばにいるからこそ、トップ選手たちは目標に向かって過酷な道を走れるんだと思うんです。
だから、僕も戸上に対して、そういう伴走者のようなプライベートコーチでありたいと思っています。戸上を導くというのではなく、すぐ隣を並走する存在。時には戸上の前に出ることもあるでしょうし、戸上の後ろについて背を押すこともあると思います。年齢もそんなに大きく離れていないので、指導者と選手というより、チームメートの感覚で対話を重ね、二人であれこれ悩みながら進んでいきたいと思っていますね。
当たり前のことですが、試合をするのは戸上です。考える力、決断する力は本人でしか養えないところなので、僕はあくまでそれをサポートする立ち位置でありたいなと思っています。
--戸上選手をコーチする上での目標を教えてください。
上田 2028年のロサンゼルスオリンピックの男子シングルスに出場し、メダルを取ることが1番の大きな目標ですが、そのためには一つ一つの試合の結果にとらわれすぎず、1年スパン、1カ月スパンで計画を立てて見ていこうと思います。
今年の目標は、まず世界ランキングのトップ10入りを目指します。それを達成したかどうかで、翌年以降に目標設定を立て直していこうと考えています。
--コーチとして新たな道を歩み始めることになりますが、そこに対する不安はありませんか?
上田 全然ダメだったらという不安はもちろんありますけど、でもそれよりも「やってやるぞ!」の気持ちの方が強いですね。自分にとっても、もちろん戸上にとっても大きな挑戦ですけど、どんな結果になるにしろ、僕はこの挑戦が絶対にこの先の自分にとってマイナスになることは一つもないと思っています。
戸上のコーチに挑戦できるのは誇らしいですし、僕を選んでくれた戸上にも感謝をしたい。ですから、やっぱり「やってやるぞ!」という心境ですね。
--最後に、上田選手のファンに向けてメッセージをいただけますか?
上田 本来であれば日本で引退する姿をお見せすべきで、ドイツで引退していいのかというところは一番迷いました。日本のファンの皆さんに僕のプレーをお見せできないのは本当に申し訳なく思っていますが、どん底からここまで戻ってこられたのは、ファンの皆さんの後押しがあってのことだと本当に感謝しています。
日本でボロボロになって、ドイツに来て全てをリセットして頑張ってきたからこそ、晴れやかな気持ちで次のステージへ進むことができます。ドイツに来たことで全てが自分の中で変わったし、こうして自分では思いも寄らなかった未来を選択することもできました。
これからは、戸上と共に大きな目標に向かって走っていきます。ぜひ、二人の挑戦を応援していただけたら幸いです。
--選手生活お疲れ様でした。上田コーチと戸上選手、二人のこれからを応援しております。本日はありがとうございました。
上田 ありがとうございました。

「何かしらを得てきたい」。そう言って家族そろってドイツへ新天地を求めた上田は、戸上という希望の種を得て、競技生活にきっぱり別れを告げた。このインタビューはリモートで行ったが、画面越しに見る上田の表情は、自分が納得して下したこの決断を早く聞いてほしかったといわんばかりに晴れやかだった。
上田のコーチ力はもちろん未知数だが、人一倍もがき苦しみ、どん底から立ち上がった経験のある上田ならば、戸上の心にしっかり寄り添えることだけは確かだろう。
運命的ともいえる出会いを果たした上田と戸上は、これからどんな進路をたどっていくのだろうか。上田のいぶし銀のプレーがもう見られないのは残念だが、しかし、上田と戸上の二人が歩むチャレンジは、上田のプレーを堪能するのとはまた違った味わいの楽しみを我々にもたらしてくれるはずだ。
(取材/まとめ=卓球レポート 写真提供=上田仁)