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朱雨玲 復帰インタビュー 
「卓球というスポーツを純粋に楽しみたい」

 2010年ブラチスラバ大会、2012年ハイデラバード大会で2度の世界ジュニアタイトルを手にすると、世界卓球2013パリでは単複で表彰台に登り、シニアでも躍進。世界卓球2015蘇州では劉詩雯(中国)とペアを組んで女子ダブルスで初優勝。世界卓球2017デュッセルドルフでは女子シングルスで決勝に勝ち進むなど、輝かしい戦績を残し、中国代表の主力として活躍してきた朱雨玲。
 その朱雨玲が、2021年突如として私たちの前から姿を消した。
 そして、2024年9月、約3年ぶりに国際大会の舞台に戻ってきた彼女に、何があったのか。2025年4月よりバタフライ・アドバイザリースタッフの一員として新たな歩みを始めた朱雨玲に、これまでの道のりと現在について話を聞いた。

「もう選手に戻ることは難しいだろう」と感じていた

--2021年以降、あなたは競技からいったん離れていました。まずは、その背景についてお聞かせください。

朱雨玲(以下、朱) 私は2021年末に避けられない事情がいくつかあり、やむを得ずナショナルチームを離れることになりました。
 さまざまな要因が重なりましたが、病気もその一因でした。実は、2019年には既に体の異常に気づいていたのですが、その時はまだ、東京オリンピックの代表を全力で目指していました。可能性は低いと分かっていましたが、その時点であきらめたくはなかったので、体からの警告を受けても、健康状態をあまり気に留めることはなかったのです。
 それから、2020年の6月頃に正式に診断を受けましたが、オリンピックの延期が決まったので、もう1年だけ耐えようと思い、治療を先延ばしにしました。
 そして、2021年9月末に手術を受けることを決めました。手術自体は良性の腫瘍を取り除くもので、現在はすっかり回復しています。
 手術後、医師から少なくとも6カ月間の静養が必要だと言われました。そのため、その後について慎重に考えた結果、卓球を続けるのは難しいと判断し、学業に進むことを決めました。そこで、大学で博士課程に進む道を選んだのです。

朱雨玲は2020年3月に行われたカタールオープンを最後に国際大会から姿を消していた(写真提供=ITTF)

--ラケットを置いた時、復帰は考えていましたか?

 当時はまったく考えていませんでした。手術を終えた後、「最低でも6カ月は休養が必要」という医師の言葉に私は強いショックを受けました。手術直後は「腫瘍は良性だったし、問題なければまた復帰できるかも」と思っていましたが、医師に休養期間を告げられた瞬間、「もう選手として戻ることは難しいだろう」と感じました。
 そう思った私は、卓球の世界から完全に離れました。正直なところ、私は休養してからの3年間、一度も卓球の試合を見ませんでした。完全に競技の世界から距離を置いていたのです。

--復帰を決めるまで、まったく卓球をしていなかったのですね。

 そうですね、復帰直前までほとんど練習していませんでした。普段は軽くランニングをする程度で、手術直後から2022年はほぼ運動をしていませんでした。というのも、手術の傷跡が治りきっておらず、動くのが怖かったからです。
 2023年には在籍していた天津大学に戻り、学生に卓球の指導をする教師としての仕事を始めました。同時に学生としても博士課程に進学しました。今ではいくつもの肩書きを持っています。天津大学で准教授を務めており、(この取材を受けている今も)天津にいます。
 私の1週間のスケジュールは、学生のための授業、自分のトレーニング、そして論文執筆で埋まっています。博士論文は10万字を書く必要がありますが、まだかなりの部分が未完成です。

--休養していた3年間はどのように過ごしていたのですか?

 手術を終えた後、私が最初にしたことは「学ぶこと」でした。私はもともと学校に行くことに憧れていたので、まず博士課程に進学することを選びました。
 次に、両親が半導体関連のビジネスをしているので、その会社で経営管理について学び、実習も行いました。
 ところで、私は四川省出身ですが、家族はかなり前から珠海(広東省)に住んでいて、私は小学生時代を珠海で過ごしました。珠海はマカオに非常に近い場所です。
 もし私が北京のナショナルチームに入らなかったら、もっと前にマカオへ行っていたかもしれません。なぜなら、私の両親は私をマカオへ行かせる計画をずっと前から持っていたからです。私が子どもの頃から「マカオの待遇や政策は良い」と言われていました。
 そして、本当に偶然だったのですが、2023年9月、マカオ政府が「人材誘致プログラム」を発表しました。これは、マカオの返還(編集部注:1999年にマカオはポルトガルから中国に主権移譲された)以来、初めて実施されたプログラムで、香港には同様のプログラムがありましたが、マカオにはありませんでした。
 2023年9月、私はインターネットでこの情報を見つけました。それは、優秀な人材をマカオに呼び込むためのものでした。私は募集条件を確認したところ、自分の経歴がその条件にかなり適合していることに気づきました。
 その時、もしマカオに行く機会があれば、将来の生活や家族のこと、さらにはビジネスの可能性を含め、より良い発展が期待できるのではないかと考え、すぐに応募を決めました。提出資料もすべてそろっていたので、手続きはスムーズに進みました。
 2023年9月に申請を提出し、2024年1月には正式にマカオの居住資格を取得しました。

一度は復帰をあきらめていたと語る朱雨玲

もう一度大好きな卓球の試合の舞台に立ち
できる範囲で全力を尽くそうと思った

--どのような経緯で卓球を再開することになったのですか?

 実は、それほど早く再開したわけではありません。2024年1月にマカオの居住資格を取得しましたが、その時点では天津大学で教員として生徒に卓球を教えていました。自分が選手として卓球をする予定はまったくありませんでしたが、卓球とは関わり続けていました。初心者の大学生を教えることもあれば、ある程度スキルのある学生や学内チームの指導も行っています。1月にマカオの身分証を受け取った後も、引き続き学校で指導に当たっており、完全に学業と仕事に専念していました。
 その後、7月末に9月のWTTチャンピオンズ マカオの話が持ち上がりました。この大会では地元選手向けのワイルドカード(開催地出場枠)があるということで、マカオの協会から出場の可能性を打診されました。その時点では、私自身もまだ迷っていました。
 今の私の立場は他の現役の選手たちとは大きく異なります。私は既にプロアスリートではなく、大学の教員という立場です。学生たちにとって私は「先生」です。そんな中で、もう一度大好きな卓球の試合の舞台に立ち、できる範囲で全力を尽くそうと思いました。
 学校では学生を指導し、彼らの試合にも同行する中で毎日卓球に触れていたので、私は学生たちにも意見を聞いてみましたが、みんなが「テレビの前で先生が試合でプレーする姿を見たい」と言ってくれたのです。それは私にとって非常に心を打つ出来事でした。
 そうして、私は「週3回以上の練習をする」という習慣を取り戻し、本格的なトレーニングを再開することにしました。でも、正直に言って、本当に自分にできるのか、すごく不安でした。
 そんなとき、学生たちの中には、夏休みにもかかわらず、家に帰らずに私の練習に付き合ってくれる学生もいました。彼らは多球練習をしてくれたり、練習相手になってくれたりしました。彼らの存在がとても大きな励みになりました。

-- 3年ぶりに国際大会に復帰してみてどのように感じましたか?

 正直、とても緊張しました。実際、マカオの試合前日の夜は興奮と不安が入り混じって、ほとんど眠れませんでした。今の自分にどんなプレーができるのまったく分からない状態で、十分な準備もできていませんでした。
 それでも、試合に出られること自体がうれしかったです。3年前には、自分がもう二度と試合の舞台に立つことはないと思っていたからです。私は完全に卓球選手とは無縁の別の世界へ進んだつもりでしたから。
 試合では自分なりに100%以上の力を出し切りました。復帰するまでの道のりは決して楽ではなく、多くの困難を乗り越えてきました。
 しかし、大会後に自分の試合の映像を見返すと、まだまだ動きが鈍く、自分のパフォーマンスに満足できませんでした。過去の自分の基準で見てしまうため、なかなか気持ちの切り替えが難しいのが現状です。

復帰戦は緊張したという朱雨玲だが見事勝利を挙げた(写真提供=WTT)

WTTチャンピオンズ マカオではかつてのチームメート王曼昱との対戦が実現した(写真提供=WTT)

人は一つのことしかできないわけではない
選択肢を狭める必要はないと考えるようになった

--競技と仕事の両立は難しくありませんか?

 これまで中国のアスリートは、一つのことに100%集中するのが当たり前でした。それが教育のスタイルでもありました。しかし、今の私はそれとは違います。自分の可能性を広げたいと思っています。人は一つのことしかできないわけではなく、選択肢を狭める必要はないと考えるようになりました。これが、この3年間で私が得た新たな価値観の一つです。
 実際、中国の大学は休暇が多く、年間を通して実際に授業がある期間は5〜6カ月ほどしかありません。また、学校側も私をとても支援してくれていて、授業のスケジュール調整もできます。現在のところ、教師としての仕事が私の本業ですし、それを手放すつもりはありません。また、大学で学ぶことは、私にとって大きな成長につながっています。

--博士課程では何を学んでいるのですか?

 私の専攻は経営管理ですが、博士論文のテーマは「エリートアスリートのキャリア転換に影響を与える要因について」という、自身としても強い関心を持っているテーマです。そして、私自身もその研究対象の一例になっています。
 私は競技の場を離れてから、「自分には卓球以外に何ができるのか?」「他の選手はどうやって新しい道を見つけるのか?」という疑問を強く抱くようになりました。競技人生を終えた後にどう進むべきか、その指針が見えなかったのです。だからこそ、博士課程に進んでこの問題を研究し、自分なりの答えを探そうと思いました。
 私が博士課程に進んだのは、単に学位を取るためではありません。私はこれまでの人生をほぼ卓球界の中だけで過ごしてきました。そのため、社会との接点がほとんどなく、外の世界を知らなかったのです。
 アスリートの世界には、社会との間にある種の「壁」が存在していると感じています。その壁の向こう側にある社会を知るために、私は博士論文で「エリートアスリートのキャリア転換」を研究テーマにしました。特に、世界チャンピオン級の選手がどのようにして新しいキャリアを築いていくのか、この点を深く掘り下げています。

卓球を通じて夢を持ち続けることができる

--研究テーマとも関連すると思いますが、ご自身の卓球との関わり方も変わったのではないですか?

 このような環境の中、学校側も私が試合に出場することを強く応援してくれています。彼らは「競技の場での私の経験が、学生にとって最もリアルな学びになる」と考えています。そのため、私が試合に出ると、学生たちが試合を観戦するイベントを企画してくれたりします。試合が終わって戻ると、空港まで迎えに来てくれたり、横断幕を作って歓迎してくれたり、花を贈ってくれたりします。
 彼らは、私の試合結果にはあまりこだわりません。ただ、「あの人は私の先生なんだ!」と誇らしげに言ってくれることが、私にとって何よりもうれしいことです。こうした点が、他の選手とは異なる、私の特別な環境だと思います。
 さらに、私はまだ学生の立場でもあります。ナショナルチームを離れて最初に取り組んだことが博士論文です。論文の締め切りは早ければ今年(2025年)の年末で、学術論文として英語で執筆しています。2023年末にはすでに研究テーマを発表しましたが、その発表も英語で行いました。日常会話の英語とは異なる学術的な英語を学ばなければならず、そのためには継続的な学習が欠かせません。
 こうした競技と学業という2つの異なる世界の中で、卓球は私のライフスタイルの一部になっています。卓球をすることで、私は幸せを感じることができ、健康も維持できます。そして、卓球を通じて「自分はどこまでできるのか」という夢を持ち続けることができるのです。私は、自分の限界を決めるのではなく、挑戦し続けたいと思っています。

バタフライのラケットにバタフライのラバーを組み合わせるとしっくりくる

--今回バタフライ・アドバイザリースタッフになりましたが、バタフライにはどのような印象をお持ちでしたか?

 私はナショナルチームに長年所属していましたが、実は幼い頃からずっとバタフライの用具を使っていました。
 私が卓球を始めて2〜3年しかたたっていなかった2004年の頃、両親がバタフライのラケットを買ってくれました。そのとき、私は両面にスレイバーFXを使っていました。幼い頃は力がなく、回転もかけられませんでしたが、バタフライのラバーは弾みがよく、楽に打つことができたのです。まだバタフライのロゴが今のデザインに変わる前で、伝統的な蝶のマークがついていた時代です。そのころからバタフライの印象がとても良かったのを覚えています。
 ナショナルチームに入ったときも、張怡寧と同じくバタフライのインナーファイバー®仕様のラケットを使っていました。私はこのラケットをすごく気に入っていましたし、自分に合っていると感じていました。
 しかし、その後ナショナルチームに入ってからは事情が変わりました。当時、ナショナルチームの選手は誰もフォア面にバタフライのラバーを使っていなかったのです。私たちは基本的にナショナルチームから支給された用具を使うことが一般的だったので、私も自然とそれに合わせることになりました。
「中国製の粘着ラバーは回転がかかりやすい」と言われていたので、特に深く考えずにそれを使っていました。でも、正直なところ粘着ラバーを使っている間、自分のプレースタイルにしっくりこない感覚がずっとありました。
 そして、2020年末ごろ、私はまだナショナルチームに所属していましたが、自分のプレーを見直す時間ができました。
「ラバーを変えてみたら、自分のプレーがもっとしっくりくるのでは?」
 そんなふうに思い始めた頃に、四川省に来ていた林昀儒(中華台北)と一緒に練習する機会がありました。その時にフォア面にテナジー05ハードを使っていた林昀儒が「このラバーはサービスの回転が強くなるし、球持ちがいい」と勧めてくれたのです。
 そこで私は当時、自分のバック面に貼っていたテナジー05ハードをフォア面に貼ってみました。
 そして、実際に打ってみると、打ってみた瞬間、「本当にしっかりボールが引っかかる!やっぱり自分にはバタフライのラバーが合っている!」とすぐに実感しました。なぜかというと、私は長年粘着ラバーを使ってきたのに、テナジー05ハードに変えた瞬間、フォームをまったく変えずにプレーできたのです。それをきっかけに、私はバタフライの用具を本格的に見直し、自分に最適な用具を探し始めました。

--思い切った用具変更でしたね。

 実は、もっと前からラバーを変更したいと思っていましたが、周りからは「もともとお前の球は回転があまりかかっていないのに、テンション系のラバーに変えたら余計に回転がかからなくなるぞ」と言われました。そのため、私は「どうやったら回転をかけられるか?」ばかりを考えていました。
 しかし、ある時ふと思ったんです。
「私がどんなに回転をかけても、もっと回転を強くかけられる選手には勝てない。それなら、スピードを生かすプレーに変えた方がいいのでは?」
 そう考え、ラバーを変更したのが2020年の後半でしたが、年末の中国スーパーリーグでは王曼昱に勝つことができました。そのとき私は、まだ新しいラバーを完璧に使いこなせていたわけではなかったのですが、それでも試合で生かすことができました。
 ラケットに関しては、特に深く研究したわけではありませんが、以前はバタフライのアリレート カーボンのラケット(限定品)を使っていました。これは、ある人から勧められたもので、男子選手から譲ってもらったものでした。当時、このラケットはすでに廃番になっていて、新しく手に入れることはできなかったのです。彼はこのラケットを「軟らかすぎる」と感じていたようですが、使ってみたら自分にぴったりだと感じました。そこで、彼が持っていたものを譲ってもらいました。
 今は以前と同様、アリレート カーボンを搭載したビスカリアを使っています。他のラケットを使うときは、毎回何かしらの調整が必要でしたが、バタフライのラケットにバタフライのラバーを組み合わせると、最初からしっくりくる感じがあります。

--バック面のラバーについてはどのように考えていますか?

 正直に言うと、私はバック面にはどんなラバーを使ってもあまり違いを感じないのです。というのも、おそらく私は自然にラバーに合わせて打つことができるのだと思います。だから、以前は特にこだわりもなくテナジー05を使っていました。
 でも、最近になって「回転もかかるし、スピードも出る」と、周りからディグニクス09Cを勧められることが多くなってきて、1週間ほど試してみました。
 すると、確かにディグニクス09Cを使うメリットを実感できました。例えば、チキータや下回転のボールに対するドライブの精度が15〜20%ほど向上したように感じます。以前のテナジー05だと、低いボールを持ち上げるときに難しさを感じることがありましたが、ディグニクス09Cはその特性のおかげで 弧線をしっかりつくれるようになりました。さらに、ロングボールに対しても、自然な弧線をつくれるので、ネットにかかりません。今の自分にとってはこの変更が正解だったと思います。
 バック面のラバーについてもエピソードがあります。
 プラスチックボールに切り替わった頃、私はプレーの調子が上がらず、どうすればいいのかを模索していた時期で、用具選びにも迷っていました。ちょうどその時、私のSNSのタイムラインで、あるラバーが推奨されている情報を見かけました。
 そこで、そのラバーを試してみることにしました。そのラバーがバタフライのロゼナでした。(トップ選手は)誰も使っていない未知のラバーでしたが、心理的な効果もあって、私にとっては大きな武器になりました。
 それまで私は劉詩雯に一度も勝ったことがなかったのですが、このラバーを使ってみたら、なんと世界卓球2017デュッセルドルフの準決勝で初めて勝つことができたのです! 選手というのは、用具から心理的な影響を受けることがよくあります。彼女も「なんかいつもと違うボールが来る」と感じていたのかもしれません。私が使っていたラバーを見たことがなかったので、対応しにくかったのかもしれません。まさに 「バタフライ・エフェクト」でした(笑)

世界卓球2017デュッセルドルフでは準決勝で劉詩雯に勝利し、決勝では丁寧に肉薄した

競技に戻ることができたのは、
何よりも卓球が好きだから

--最後に、選手としての目標を聞かせてください。

 それは「好きな卓球を長く続けること」です。
 以前、中国代表としてプレーしていたときは、とにかく勝つことがすべてでした。目の前の大会で優勝し、次の大会でも優勝を目指し、その繰り返しでした。それは無意味ではありませんが、どこか「終わりのないループ」にも感じられました。常に勝利を求め続ける生活は、試合から離れた後に大きな喪失感を生むものです。
 だからこそ、今の私は「肩の力を抜く」ことを意識しています。何かに執着しすぎず、卓球というスポーツを純粋に楽しむことが大切だと思うようになりました。競技に戻ることができたのは、何よりも卓球が好きだからです。それ以上に重要な理由はありません。
 率直に言えば、私は他の多くの選手とは違う立場にいます。今の私にとって、卓球の試合結果が人生の進路を左右することはありません。私はすでに複数の役割を持ち、選手としての勝敗は人生に影響を与えるものではありません。
 一方で、「30歳だからもう卓球はできない」とか、「競技を続ける年齢には限界がある」といった固定観念には縛られたくありません。未来のことは決めつけず、自分のやりたいことを、できる限り続けていきたいと思っています。(了)

WTTチャンピオンズ仁川では往時を思わせる堅守でベスト4に名を連ねた

 まだまだ世界でビッグタイトルを狙える可能性はあるのではないだろうか?
 そんな期待をよそに、朱雨玲は時折国際大会に出場しながら仕事と学業にいそしむ今の生活を、中国代表として世界の頂点を狙っていた時以上に楽しんでいるようだ。かつて彼女がいた、勝利至上主義をストイックに徹底することでしかたどり着けない境地があるということは、その頂を視界に捉えることすらできない私たちにも想像ができる。だが、彼女が今いるのはきっと別の山の頂だ。
 第一線を退いてなお、充実した卓球人生を送っている今の彼女のあり方は、従来のトップ選手像に大きな揺さぶりをかけるものだ。アスリートが競技とどのように関わり、人生を豊かにしていくのかというさまざまな可能性を示唆しているのではないだろうか。
 私たち「卓球ファン」は言わずもがな、トップ選手でさえ、もっと卓球と多様な関わり方を持ってもいい。そうしたメッセージを、数年前まで「中国代表」という特別な場所にいた朱雨玲が発信することにはとてつもなく大きな意味がある。このメッセージが、今後、より多くの扉を開いていくことを期待せずにはいられない。

(取材/まとめ=卓球レポート)

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