卓球レポートでは、卓球日本にとって悲願の金メダルを獲得し、一躍時の人となった水谷隼(木下グループ)にインタビューをする機会を得ることができた。ここでは、既に多くの場で語られている混合ダブルスではなく、苦心の末に水谷が自身の手で銅メダル獲得を決めた男子団体に焦点を当てて話を聞いた。水谷本人が「初めて話したことがほとんど」というエピソードの数々を味わっていただきたい。
最終回は大会全体を通して振り返ってもらった。
今大会は無観客で行われましたが、日本開催ということでホームアドバンテージはありましたか?
ホームアドバンテージは別になかったですね。今回は、会場に入れる人がすごい制限されて、マッサーやトレーナーも入れなかったくらいだったので。
それでも、日本人のスタッフは10人くらいはいたので、彼らとは一体になって戦っていました。混合ダブルスも団体戦もそれはすごい力になりました。日本は男子と女子のスタッフがいたので、ちょっとだけ他国よりもスタッフが多かったかもしれませんが、これといって大きなアドバンテージはありませんでした。
会場はこれまで数え切れないくらいの勝利を挙げてきた東京体育館ですが、プレーにはどのような影響がありましたか?
リニューアルされて照明が全部変わってしまったので、やり慣れた環境ではまったくなかったですね。
観客席のレイアウトも違ったので、全日本と同じ会場とは思えなかったです。
ただ、東京で行われたオリンピックということで、連日連夜テレビでオリンピックの話題が流れるじゃないですか。そういう映像とかを見ていて、自分が映っていたりすると、「明日も勝ってテレビに出るんだ!」というモチベーションは上がりましたね。
メダル獲得後は他のチームの選手やスタッフからも祝福されたりしましたか?
今回は練習場に入れるのも試合の90分前と決まっていて、期間中に一度も会わない選手も多かったですね。オフチャロフには、混合ダブルスの2回戦(準々決勝)でドイツペアに逆転勝ちした後に、お祝いじゃないですけど「チキータを相手のミドルに打てれば優勝できるよ」と謎のアドバイスをされました(笑)
オフチャロフは練習を見ていても相当仕上がっているのが分かりました。他の選手の試合もそこそこ見ていましたが、男子シングルスの準決勝2試合(樊振東 対 林昀儒、馬龍 対 オフチャロフ)はヤバかったですね。あと、3位決定戦(オフチャロフ 対 林昀儒)はオリンピック史上一番熱い試合でした。
林昀儒は団体戦でもオフチャロフに勝ちましたし、着実に伸びていますね。多才ですから、あと威力さえ出てくればという感じですね。
この東京オリンピックは水谷選手にとってどのような大会でしたか?
リオオリンピックが終わってから5年間、この大会のためにずっと努力してきて、残念ながらシングルスの出場はかないませんでしたが、その代わりに混合ダブルスに出場できて、悲願の金メダルを取ることができて本当によかったです。
厳しいと言われていた男子団体でも、最後に自分が2点を取って銅メダルを決めるという最高の終わり方ができたので、自分としては大満足の東京オリンピックでした。
点数をつけるとしたら何点ですか?
1000点くらいです(笑)
想像の10倍くらいいい結果が出たということですね。大会前は不安しかありませんでしたが、終わってみたら最高の形で締めくくることができたんじゃないかと思います。
リオオリンピックで男子シングルス銅メダル、男子団体銀メダルを取った後、水谷選手自身が人間的に大きく変わった印象を受けましたが、金メダリストになった今回も変化はありそうですか?
ありますね。テレビ番組なんかで他の競技のメダリストと一緒になるじゃないですか。そうすると、銀メダリストと金メダリストじゃ全然違うんですよ。
僕が勝手に感じているだけかもしれませんが、メダリストの間にもヒエラルキーがあるんですよね。リオの時は僕は銀メダリストだったので、メダリストとして紹介されても、どこか窮屈な思いをしていたんです。やっぱり主役は金メダリストじゃないですか。
だから、変わりましたね。余裕を持っていられるんですよ」
まったく嫌みなくそう言ってのけられるのは、彼が、銅メダリストと銀メダリスト、そして金メダリストのすべてを経験した希有なアスリートだからなのだろう。
オリンピックのメダル獲得に限らず、水谷隼の日本の卓球界に対する貢献は計り知れない。競技人口・観戦人口の増加、競技レベルの向上、卓球選手・指導者のステータスの向上など、枚挙にいとまはない。そして、それらのすべては私たち卓球ファンにとって大きな喜びであることは間違いない。
そして、これから何年、何十年が過ぎても、私たちが誇りに思うのは「水谷隼という卓球選手の技巧的で知的で勇敢なプレーを目撃した」ということではないだろうか。
(取材=卓球レポート)