アスリートには、それぞれの競技人生の中で大きな選択を迫られるターニングポイントがたびたび訪れる。そのときの判断がその後の競技人生を大きく変えることも少なくないだろう。進学か、就職か。国内か、海外か。アマチュアか、プロフェッショナルか。引退か、続行か......。
このインタビューシリーズでは、今、転機を迎えている選手たちに焦点を当て、なぜその道を選んだのか、その決意に至った理由に迫る。
今回は、実業団の強豪・協和キリンの中心選手から監督(兼選手)へと転身した、平野友樹にスポットを当てる。
前編では、監督を引き受けた経緯やこれまでの競技人生について語ってくれた。
−協和キリンの監督に就任したいきさつを教えてください。
真二さん(佐藤真二元協和キリン監督/現GM)が定年退職を迎えることが、監督を引き受けた理由として1番大きかったです。組織も変わっていかなければいけない中で、真二さんと話したり、自分でもいろいろと考えました。
これまでも卓球を辞めた後のことは自分なりにいろいろと考えてはいたのですが、「これがやりたい」という明確な答えが出なかったんですよね。それが、コロナがまん延し始めたあたりから深く考えるようになり、ちょうどその頃に監督の話をいただいたので、それがきっかけになりました。
そのため、コロナという状況になっていなかったら、僕は現役を続けていたと思います。
−監督だけでなく、しばし選手も兼任されるということですが、大変ではありませんか?
確かに監督と選手の両立は難しいですが、正直に言うと僕は忙しいのが結構好きなんです(笑)。仕事だと思えば普通にできます。なにかしらやりがいを感じることに関しては、忙しかろうとストレスがかかろうと、モチベーションの維持が得意なんです。
自分ではポジティブ人間だと思っているので、大変だという言葉があまりなくて、周りには多分すごく迷惑をかけていると思うんですけど(笑)、監督と選手の両立は自分の中ですごくやりがいを持ってできています。
−今年のビッグトーナメント福島大会では昨年優勝したのにもかかわらず、平野さんの姿はベンチにありました。第一線から退く気持ちの踏ん切りが、よくつきましたね。
実は、自分が卓球選手としてだめだなって思う瞬間がありました。それは「世界で勝てなくなってきたな」と思ったことです。選手として上を目指す以上、やっぱり世界で勝つことを目標に今までずっと頑張ってきたし、世界卓球に出ることも目標でした。
しかし、僕だけに限ったことではなくみんな同じだと思いますが、コロナがまん延して練習時間が限られて活動も制限され、それでやっぱり力も落ちていく。いざ試合をすると、日本リーグでは確かに勝てるけれど、若い子たちと対戦するとプレースタイルのギャップに驚くことが多くなったんです。海外の試合を見てもやっぱり時代は変化していて、「ああ、そこで(世界で)勝てる自信がないな」って思った瞬間に、これは多分もう選手としてはだめだなと悟りました。
−選手としての限界を感じたということでしょうか?
そうですね。自分個人としては、日本の中だけで勝つことはあまり考えてきませんでした。やっぱり世界で勝てるから日本があって、日本で勝てるから協和キリンのような母体チームがあると思っていて、世界で勝てなければこのラインがつながらないのが僕の考えなんです。
世界で勝つことにこだわらず、もうちょっとゆるい感じでプレーを続けることは全然できましたが、そうした中途半端な感じで居座っても後輩や若手たちに申し訳ないというのも、踏み切ることができた理由の1つだと思います。
−具体的に、一線を退くきっかけになった大会はありますか?
アジア選手権の選考会(2021年アジア卓球選手権ドーハ大会日本代表選手男女選考合宿)とか世界選手権の選考会(2021世界卓球選手権ヒューストン大会男女日本代表選手選考合宿)ですね。その前から、「そろそろきついなあ」と感じてはいましたが、具体的にはそれらの選考会です。
なので、監督の話が出たときは、比較的すんなり引き受けることができました。
−選手としてはどのあたりが最後になるでしょうか?
出場するとしたら団体戦のみですが、今年いっぱいと考えています。
大きな目標としては、今年の秋に行われる栃木国体です。僕の地元であるにもかかわらず、栃木県には何も恩返しができていないので、なんとか優勝して恩返しがしたい。団体戦なので出番があるかどうかは分かりませんが、出る可能性はあると思うので、試合に出るつもりで準備だけはしておこうと思います。
また、年末に行われるJTTLファイナル4(日本卓球リーグのプレーオフ)に向けても、チームの誰かが出場できなくなってしまったときのために、準備しておくつもりです。
−今年の全日本ではお姉さんの早矢香さん(元全日本チャンピオン)がベンチに入られていました。全日本は今年で最後と決めていたからでしょうか?
そうです。真二さんから、「お前は最後まで全力でやらないといけないし、上にいかないといけない。それには、俺より姉の方が良いからベンチに入ってもらいなさい」と後押しされて、平野家としても考えて姉に入ってもらいました。
−早矢香さんのベンチはいかがでしたか?
ベンチに入ってもらったのは初めてでしたが、楽しかったですね。ただ、姉には継続的に教えてもらっていましたし、海外の試合に行ったときは相手選手の情報や戦術などのアドバイスももらっていました。
姉との全日本は楽しかったのですが、あそこで(4回戦で吉山僚一/愛工大名電高に敗戦)負けてしまうなら最後の全日本のベンチを真二さんにお願いしても良かったのかなと、ちょっと後悔しています。でも、相手が強かったから仕方ないですね。
−少し聞くのが早いと思いますが、振り返ると、どんな競技人生でしたか?
自分の限界を知ったという意味で、やり切れたんじゃないかなと思います。ただ、両親は僕のプレーを見ることができなくて悲しんでいるので、そこに関しては申し訳ない気持ちです。
−ご両親を含め、もっとプレーを続けてほしいという声は多かったと思います。
ありがたいことにそうですね。けれど、いろいろな人に迷惑をかけましたし、好き勝手にやらせてもらいました。「あそこで勝ちたかったなあ」「あれをもっとやっておけばよかった」みたいな思いは部分的にはあるんですけど、後悔はないですね。
ここから、これまでの恩返しのスタートだと思っています。
−これまで印象に残っている試合を挙げていただけますか?
えー、どうでしょう。年代ごとにあるので、多すぎてしぼれない(笑)。
中学でいうと全中(全国中学校卓球大会)の男子シングルス優勝ですね。高校だったら沖縄のインターハイ(全国高等学校卓球選手権大会)がすごく思い出があります。あのインターハイは、野田学園が初めて青森山田のメダル数を上回ることができたので、めちゃくちゃうれしかったですね。
大学では、1年生の時が精神的にきつかったので強く印象に残っています。同級生でライバルの神(神巧也/ファースト)が活躍する一方で、僕は結果が全然出なくて。けれど、水谷さん(水谷隼/木下グループ)とダブルスを組ませていただいて、かなり当たりを強くされて心をへし折られながらも(笑)、なんとかやりきったことは思い出深いです。
−水谷氏のプレッシャーが強かったんですね?(笑)
そうですね(笑)。でも、自分が1年生の時に水谷さんをはじめ、先輩たちが熱い思いで大学生のグランドスラム(関東学生春季リーグ、同秋季リーグ、インカレの3大会を優勝すること)を達成しました。その思いを引き継いで、僕が4年生の時にグランドスラムを達成できたのは、とても良かったと思います。
−社会人になってからはいかがでしたか?
協和キリンに入社してからは、本当に好きにやらせていただいたんですが、1番は団体戦の魅力に気づかされたことですね。僕が入社当時は1番年上に小野さん(小野竜也)、それから賢二さん(松平賢二/協和キリン)、笠原さん(笠原弘光)、上田さん(上田仁/T.T彩たま)、森本さん(森本耕平/愛知工業大監督)たちがいて、みんながなんていうかもう一試合一試合それこそ死ぬ気でプレーしていました。チーム内も全員がライバルで誰が団体戦に出てもおかしくない状況だったので、練習もすごくピリピリしていましたね。
そのおかげで強くなることができました。もっと強くなるために、試合に出るためにいろいろ深く考えることができたので、自分が1番成長できた時期だったと思います。なので、協和キリンに入ってからは、ずっと良い思い出しかありません。
【後編に続く】
(まとめ=卓球レポート)
平野友樹インタビュー(後編)「選手に希望の光を与えられるような監督になりたい」