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水谷隼インタビュー(前編)

 アスリートには、それぞれの競技人生の中で大きな選択を迫られるターニングポイントがたびたび訪れる。そのときの判断がその後の競技人生を大きく変えることも少なくないだろう。進学か、就職か。国内か、海外か。アマチュアか、プロフェッショナルか。引退か、続行か......。
 このインタビューシリーズでは、今、転機を迎えている選手たちに焦点を当て、なぜその道を選んだのか、その決意に至った理由に迫る。
 今回は、現役引退から1年弱を経て、お茶の間でもすっかりおなじみの存在になった水谷隼(木下グループ)に、選手時代、また、引退後の転機について語ってもらった。

--長い競技人生の中で、いくつかの大きなターニングポイントがあったと思いますが、その中でも水谷さんにとって最も大きな転機はどこでしたか?

 ドイツ留学と、青森山田中学校への転校です。その後の人生1番大きく左右するという意味では、この2つが大きな転機でした。
 自分が卓球で生きていくぞ、卓球で食べていくぞという決意を固めたのが、やはりドイツ行きだったので、そこが自分の原点だと思いますね。

ドイツに渡った頃の水谷。デュッセルドルフの練習場にて

--ドイツ行きを決めたポイントは何でしたか?

 自分にしかチャンスがないことだと思ったら、僕はすぐ行動していた記憶はありますね。
 みんながみんなドイツに行ける中で、どうしようかなという状況であれば、僕は多分行っていなかったと思うんですけど、僕の代わりが誰もいなかったので、ドイツ行きを迷わず決めました。
 当時中学2年生で、ドイツに行けるぐらいの実力と、あとは精神的に強い気持ちを持った選手がいなかったので、自分が行かなかったら、それ以降、他の選手が行くっていうことにもなっていなかったと思います。

--とはいえ、ドイツに行くという決断だけでは必ずしも成果には結びつきません。成果に結びつけることができた要因はなんですか?

 それでもやっぱり「行く」という決断が1番難しかったと思います。
 行ってからはもう「やるしかない」ですからね。すごい楽しかった記憶もあります。強い選手と毎日練習できたり、週末はプロの選手の試合を見られたり、実際に自分が強い選手と対戦したりとか。卓球してる時は本当に楽しかったなという印象が残っています。

--成果を感じられたのはいつ頃からですか?

 中2の全日本選手権大会のジュニアの部で史上最年少で優勝して、一般で最年少でランキングに入ったので、ドイツに行って半年後にはもう結果が出てきていましたね。

--それはドイツに行った成果だと捉えていますか?

 間違いなくそうですね。中学1年生の時は1回戦負けだったんで、それが中学2年生でドイツに行って、いきなりベスト16に入るというのはドイツに行ってなかったら考えられないと思います。

平成15年度全日本選手権大会ではジュニアの部で優勝、一般の部でランキング入りと一気に頭角を現した

--その次に大きな転機というと、いつになりますか?

 基本的に、そのドイツに行った時と中国リーグに行った時、あとはロシアに行った時ですね。結局、海外リーグを転戦したときです。

--それぞれの時に、何かを変えなければという問題意識があったんですよね?

 ドイツはやはり「強くなりたい」という気持ちがありました。マリオ(マリオ・アミズィッチ)もいましたし、憧れであった岸川さん(岸川聖也)と坂本さん(坂本竜介)が先にドイツに行ってて、自分もその先輩たちの後ろをついていきたいというのもあったので、それで5年間ドイツに行きましたが、4年目ぐらいの時にはなんとなく「ドイツで学べることは学んだのかな」という思いがありました。
 そんな中で2008年に、中国の超級リーグからオファーがあって、偶然北京オリンピックで優勝した馬琳と同じチームになれたので、すごい勉強になりました。
 次が、2013年だと思うんですけど、ロシアリーグに行ったのと同時に、邱さん(邱建新)がプライベートコーチでついたことが大きな転機だったと思います。
 その時は2012年のロンドンオリンピックから1年間ぐらい自分の中で1番スランプみたいな時期だったので、そこから最後までですね。本当に自分の集大成に向かって、オリンピックでメダルを取るために走り出したっていうのは2013年の時だと思います。
 2013年にロシアに行ってからは、ワールドツアーで優勝したり、世界卓球でもいい成績を挙げたり、ヨーロッパチャンピオンズリーグでも全勝でチームに貢献できたり、ロシアに行ってから、また1ランク自分の能力値が上がった気がします。

2017年には水谷が全勝でオレンブルクのチャンピオンズリーグ優勝に貢献した

--そういう転機の時に下した決断は、結果的にはすべて「正解」でしたか?

 そんなことはないと思いますよ。今考えたら、すべて正解だったかもしれないし、すべて失敗だったかもしれないし、それは正直どっちでもいいかなというのがあります。
 その選択というよりも、その時期に自分がもっとしっかり卓球と向き合ってたらよかったなとかあ、もっと本気で卓球に打ち込んでたら、もっといい成績を挙げることができたんじゃないかなとか思ったりしますね。

--具体的にいつのことですか?

 大学時代とか、多分もっともっとやれたことがあったと思うんですよね。
 大学を卒業してからもそうですね。それこそ卓球を始めてからロシア行くまでの間っていうのは、まだまだ本気の自分じゃなかったような気がしますね。ちょっと周りに流されながら、指導者の言うことを聞いていれば強くなれるんじゃないかなみたいな。周りに頼っていた部分もあったし、自分も甘えてた部分があったし。知らなかったんですよね、プロというものが何なのかを。
 結局、日本の甘い世界にいて、先輩たちを見習ってたんですけど、その先輩たちが甘いから、自分はその甘い中に埋もれてたっていうか。その時はそれが正しいと思ってたんですけど、今思えば、だから、その時の日本は勝てなかったのかなと思いますね。
 そこで、ロシアに行ったことによって、プロというものは何なのか、厳しい世界を知ることができて、やっぱり自分が甘かったということがわかりました。プロ意識を持つようになってから一気に成長しましたね。

--日本にいたら気づけなかったプロ意識というのはどのようなものですか?

 まず、意識が違いますね。
 日本にいる時は結構選手同士で話をするんですけど、明日、練習めんどうくさいなとか、休みたいなとか、そういう話が結構多いんですよね。疲れたとか、めんどくさいとか、やりたくないとか。
 でも、ヨーロッパに行った時って、1度もそんな話を聞いたことがなくて、みんながみんな自分の今日の技術はどうだったのかなとか、みんなでその技術の話をしたりとか、あと、試合前もすごく戦術の話をしたり、オーダーについてもそうですけど、とにかく勝つためにどうしたらいいのかということを真剣に考えるんです。日本はどちらかといえばさぼることや休むことをメインで話してる印象はありますね。
 だから、結局、決まった練習だけやって終わっちゃうみたいな。自主練習とかやる選手もいるんですけど、でもヨーロッパではそれが普通ですからね。

--それは海外に行かなければ気づくことができなかったことですか?

 そうですね。練習については今言いましたけど、例えば、食事の面でも、正直に言って日本の選手で食事に気をつけている選手を見たことがないんですよね。この15年間くらいで食生活をストイックに管理してた選手って自分だけだと思うんですよ。
 昔も今もみんな好きなもの食べて、試合が終わればみんなで食事に行ったり、成人だったら飲みに行ったりっていう選手しかいないから、もったいないと思いますね。そこでもっと自分に対して厳しくしていれば、他の選手と差をつけることができますからね。
 結局、そういう環境にしている周りもよくないとは思います。先輩や監督が、試合終わったから飯行こうぜみたいな流れがありますよね。そういう先輩方も、甘えて行っちゃう選手もよくないとは思います。どちらにもプロ意識が足りないですね。

--水谷さん自身は食生活が勝敗に影響すると実感したことはありますか?

 ロシアに行った2013年の時って、全然食事の節制をしてなくて、自分だけジュース飲んだり、デザート食べたりしていたんですよ。でも、周りの選手見たら、誰もそんなことしていない。試合で勝ってもみんな水しか飲まないんですよ。日本だったらありえないですよね。海外では試合に勝った日も普通の1日と同じような感じで、みんな水飲んで、じゃあ、また次、頑張ろうみたいな感じですから。
 それで、だんだん自分が恥ずかしくなってきて、すごく影響もされて、そういうストイックな生活を送るようになってから、やっぱりパフォーマンスがすごく上がったんですよね。けがも減ったり、ボールの威力も増したり、いいことばかりで。あとは、ストイックにやっているということ自体が自信になりますね。自分はここまでやってきたんだから、あの選手には負けないだろう、負けたくないという、そういう気持ちも芽生えてきて、すごくいい効果が生まれた気がします。

--食生活でいうと具体的には何を気にしていましたか?

 普通にアスリートとしてのあるべき姿ですよね。クリスチアーノ・ロナウドじゃないですけど、糖質を控えるとか、カロリーのある飲み物も取らないとか、肉を食べるとしたら鶏肉にするとか。
 昔はみんなお金もなかったし、自分で好きなものを食べる時間もなかったから、合宿所でご飯を食べたりしていましたが、今は選手が経済的に豊かになって、選択肢が増えている分、好きなもの食べたりできるようになってきていますよね。選手のSNSを見てると、休みの日は大体おいしいものを食べたり飲んだりしていますよね(笑) そういうのは僕みたいに引退してからすればいいのにって思いますね。

「ロシアに行くことで初めて高いプロ意識に触れた」と水谷

--ロシアリーグに行ったのが2013年ですから、それから引退までの期間は結構長かったと思いますが、その間にもターニングポイントはありましたか?

 悪い意味で言えば、やっぱり目の異常が起きてからはつらい時期が始まりましたね。それまでは伸びしろしかないと思ってたんですけど、そこから正直、もう伸びる限界を感じました。これ以上伸びることはないなと思い始めたのが、目に異常が出てきた2018年ぐらいだったので、そこからは正直、耐えていくだけでした。
 そういうことが起こるのも、本来は計算しとかなきゃいけないんですよね。僕は骨折を2回しているので、けがに関しては準備はできていましたが、目に関しては全く知識もなかったですし、まさか一生治る可能性がない病気になるとは思っていなかったので、そこでの悔しさというか、もうちょっと選手としてやりたかったなという気持ちは持っていますね。
 せっかくいい状況になってきて、パフォーマンスも上がってきて、これからという時に目の調子が悪くなってきたので。

--とはいえ、東京オリンピックで金メダルという最高の形で選手の幕を閉じることができたわけですが、それでも心残りはありますか?

 もちろんありますね。卓球が好きでずっとやってきましたし、できることなら、本当は40歳とか50歳までやりたかったなと思っていますね。

--以前の卓レポのインタビューで引退してからも、無名の選手として全日本に出てみたいと仰っていましたね。

 もちろん、勝負したいというのはありますね。今の若い選手の試合を見ていても、まだ自分だったら勝てるんじゃないかなみたいな気持ちがあったりするので。そういう選手たちと勝負してみたいという気持ちはありますけど、一方でちょっと怖いというか、もう引退してから時間もたちましたし、いいイメージのまま自分のキャリアを終えているので、弱くなった自分を感じたくないなという部分もありますね。
 やっぱりボールが見づらいので、そういう状態で卓球している自分って正直パニックというか、卓球するのが怖かったんですよね。
 せっかく楽しく卓球を始めたと思ったら、またボールが見づらくて、なんかこうストレスに感じてしまうんじゃないかなという不安もあります。
 だから、選手生活の最後の方は全然楽しくなかったし、早く卓球から離れたいというのはありました。2018年に目に異常が出てから2021年まで、3年間以上そういう状態だったので、よく持ってくれたなというのが正直な気持ちです。

 インタビュー後編では、タレント活動での苦労、また、後輩たちにかける期待と不安について詳しく聞いた。

(まとめ=卓球レポート)

水谷隼インタビュー(後編)「日本が再び世界のトップから遠ざかる可能性は十分にある」

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