2006年の世界卓球選手権ブレーメン大会に若干14歳で中華台北代表として出場して以降、鄭怡静は中華台北の揺るぎないエースとして世界のトップで活躍し、歴代の日本代表の前にも幾度となく立ちはだかってきた。2018年の設立時からTリーグに参戦したことからも、鄭怡静は日本の卓球ファンにとってなじみのある海外の女子選手ではないだろうか。
世界のトップで長く活躍する鄭怡静に、その理由を聞きたいと思いながら機会に恵まれなかったが、ようやく念願がかなった。鄭怡静のキャリアをたどりながら、長くトップで活躍できる秘訣や、彼女の卓球観などについて尋ねたインタビューをお届けしよう。
前編では、卓球を始めたきっかけや東京オリンピックでのメダル獲得について、これまで印象に残っている試合などを聞いた。
--卓球を始めたきっかけを教えてください。
鄭怡静 自宅の近くに、学校を終えた子供たちが集まる施設(日本でいう児童館のような施設)があり、そこで姉が卓球を始めました。姉にくっついていって、姉の周りに落ちたボールを手早く拾っていたら、そのときに卓球を教えていたコーチが「すごく早いね」と褒めてくれたんです。それで良い気分になって始めました(笑)。9歳の時です。
--かわいいきっかけですね(笑)。卓球のどこに魅力を感じたか覚えていますか?
鄭怡静 ラリーのリズムですね。まるで音楽のようで、すぐに夢中になりました。周りの友達はいろんな習い事をしていましたが、私は卓球以外は何も習い事をしませんでした。あの頃から今まで、ずっと卓球一筋です。
--そこからどのようなキャリアをたどりましたか?
鄭怡静 基本的に小学校を卒業する12歳までその施設で練習していましたが、1年くらいで上達したので、いろいろな所へ練習試合に行くようになりましたね。中学生になってからは拠点が台南(中華台北の南西部の海岸に位置する都市)の練習場になり、江宏傑(元中華台北男子代表)ら男子選手と一緒に練習していました。
--あなたは14歳という若さで中華台北の代表として世界卓球2006ブレーメン(団体戦)に出場しました。9歳から卓球を始めてわずか数年で世界卓球デビューというのは普通ではありません。
鄭怡静 本格的に強くなろうという子供が9歳から卓球を始めるのは当時の中華台北でも遅い方だったので、自分でもすごいと思っています(笑)。それは冗談として、私にとって幸運だったのは、中学生になってからの練習のほとんどが、先に挙げた江宏傑など国内でもレベルの高い男子選手が相手だったことです。普段から男子選手の質の高いボールを受けることができ、高い強度の訓練を行うことができたことが、今思えばすごく良かった。それが、早い成長につながったと思います。
--当時は推薦で中華台北のナショナルチームに選ばれたのでしょうか?
鄭怡静 いいえ、推薦ではありません。世界ランキングで50位以内に入れば自動的にナショナルチーム入りできますが、そうでない選手は毎年行われる選考会に出て、勝たなくてはいけません。(当時は)ランキングによる自動推薦と選考会で、だいたい12人ほどナショナルチームの選手が毎年選抜されるのですが、そこから世界卓球の団体戦のメンバーに選ばれるためには上から5番目までに入る必要があります。なので、推薦ではなく、そこまで自力で勝ち残ってブレーメン大会の代表になりました。
--推薦ではなく、自力とはなおさらすごいですね。ブレーメン大会はいかがでしたか?
鄭怡静 眠かったことしか覚えてないです(笑)。当時、私はまだ幼かったので、21時には寝ていました。しかし、ドイツのブレーメンとは時差があり、試合が始まる18時頃は、中華台北では深夜0時過ぎなんですね。だから、もう眠くて眠くて。「まだ試合終わらないの?」と、そればかり考えていたことしか覚えていません(笑)
--14歳にとって、その時差はつらいですね(笑)。試合はどうでしたか?
鄭怡静 予選リーグの北朝鮮戦で1試合だけ出させていただきました。対戦相手の名前は忘れてしまいましたが(対戦相手はJANG Hyon Ae)、ゲームオールの2対3で負けました。勝つことはできませんでしたが、とても面白い経験でした。
--ブレーメン大会に出場する前から「ナショナルチームに入りたい」「世界卓球に出たい」という目標を持っていたのですか?
鄭怡静 強烈に出たいという気持ちはありませんでしたね。当時は自分がどれくらいやれるのか客観的に分かるはずもありませんでしたし、親からも高い目標を要求されたことはありませんでした。ただ、自分で言うのもなんですが、私は結構自分に厳しいタイプなので、卓球をやるからにはベストを尽くしたいという思いは強かったです。
--2006年にブレーメン大会に出場して以降、2022年の成都大会まで世界卓球に連続出場されています。ここまで長くトップでプレーできる理由を、ご自身ではどうお考えですか?
鄭怡静 自分で分析すると、やはり真面目な性格が幸いしているのではないでしょうか。これまで決して順風ではなく、いろいろな挫折や困難を乗り越えたからこそ今があると思っていますが、その背景には真面目な性格、自分に厳しい性格があるんだと思います。負けて泣いたり、ひどく落ち込んだりしたこともたくさんありましたが、自分なりに真面目に厳しく目標を課しているので、それらは無駄ではなかったと思います。
その目標に向けて計画通りに一歩ずつ進んでいき、達成した時の勝利の喜びが、私が1番追求したいことです。
--目標は具体的にどのように立てるのですか?
鄭怡静 成長するにつれて、段階的に目標を立ててきました。
はじめに立てたのが、オリンピックへの出場です。オリンピックはアスリートにとって夢の殿堂であり、最終目標です。
私は、2012年のロンドンオリンピックへの出場を逃しました。私にとって最初の大きな挫折でした。けがで思うようにプレーできなかったことが主な理由でしたが、「どうして自分はオリンピック前の大切な時期にけがしてしまったのか」「なぜ自分の体を守れなかったのか」と、とても悔しい思いをしました。
その悔しさから、「2016年のリオデジャネイロオリンピックへの出場権は絶対に勝ち取る」と目標を立て、実際に出場がかなって目標を達成することができました。しかし、女子シングルスでは準々決勝まで勝ち上がったものの、李暁霞(中国)に負けてメダルに届かず、そこでもとても悔しい思いをしました。
そこで、次は「オリンピックの表彰台に立ちたい」と目標を立てました。
このような感じで、段階的にしっかり目標を立て、そこに向かって一歩ずつ進んできたことが、これまで長くプレーすることができた理由かもしれません。
--2021年の東京オリンピックでは、林昀儒と組んだ混合ダブルスで銅メダルを獲得しました。「オリンピックの表彰台」という目標を達成できた瞬間だったと思います。
鄭怡静 メダルを手にした時は本当にうれしかったですね。もう、全てのプレッシャーから解き放たれた感じでした。周囲からの期待や自分への期待に応えることができました。
--林昀儒とのペアはいかがでしたか?
鄭怡静 林昀儒も私も、もともと自分の感情を伝えるのが上手なタイプではないので、ペアを組み始めた当初はあまりコミュニケーションを取らずに試合をしていました。
しかし、東京オリンピックが開催される2021年の年始でした。中国ナショナルチームと合同練習をする機会があった時、練習試合で中国のペアに負けたんです。本当にあっさりと。私は試合の内容や結果に納得がいかなくてひどく落ち込み、それが顔や態度にも出ていたのだと思います。そうしたら、林昀儒が「どうしたの?何かありましたか?」と優しく声をかけてくれました。
そこから2人で2時間ほど話し合い、それで一気にお互いの心が開きました。以降は、いろいろな話題をざっくばらんに話すようになり、林昀儒の車好きを知ったり、彼も私の好きな食べ物を知るなど、お互いのことをもっと知るようになりました。こうしたコミュニケーションを機に、プレーも良くなっていったと思います。
--コミュニケーションを深めたことが、銅メダルという結果につながったのですね。東京オリンピックでのメダル獲得はあなたのキャリアの中でハイライトの1つだと思いますが、そのほかに印象に残っている試合はありますか?
鄭怡静 たくさんありますが、強いて挙げるなら、2013年ワールドツアーの中国オープンで朱雨玲(中国)に勝った試合が思い出深いです。
--世界卓球やオリンピックではなく、ワールドツアーでの試合が真っ先に挙がるのは興味深いですね。
鄭怡静 先に話しましたが、2012年のロンドンオリンピックは、けがの影響で思ったようなプレーができずに国内の選考会で負けて代表権を勝ち取ることができませんでした。それ以来、ずっと暗闇の中を歩いているような気分で卓球をしていましたが、2013年の中国オープンで当時、中国の主力だった朱雨玲に勝ったことで、暗い世界から一気に明るい世界へのドアを開けたような気持ちになることができたんです。オリンピックの代表を逃してふさぎがちだった私が再び前を向くきっかけになった試合として、とても印象に残っています。
文中敬称略
(取材/まとめ=卓球レポート 協力=馬佳)